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2006年11月27日 (月)

大分と別府、アートとマネジメント(2)

P1060215P1060218 27日は別府市で行われているNPO別府プロジェクト(BEPPU PROJECT)による「ストリートプロジェクト06」を観に行きました。昼までに用事を済ませて横断特急で一路別府へ。
今回は、25日の日本アートマネジメント学会大会とかぶっていた全国アートNPOフォーラム別府も興味あったけれども、せめて‥‥一目どんな感じが観たいという思いもあったのです。誰に聞いてもよくわからないという2008年に国際アートフェスを開催するというBEPPU PROJECTの様子をみるのも楽しみに、弾丸別府ツアーというわけです。
ストリートプロジェクトの場所も、別府の調査宿泊の際には近くのビジネスを利用していたので竹瓦温泉へ行って適当なところで食事するのにウロウロした界隈なので土地勘はちょっとはあるところなのも幸い。

とは言え、別府市の一番ディープそうな歓楽街、竹瓦温泉周辺。
その路地に審査員が選定した、大分ゆかりのアーティスト藤崎友子さん・大木千波さん・平川渚さんの3人の作品が展示されるという構成。それぞれ興味ある作品を展示していました。


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で、「路地」「ストリート」‥‥って?
この竹瓦温泉界隈はそこかしこの横丁に○俗営業のお店やバー・パチ ンコ屋があって客引きのお兄さんが昼間から路上に立っているようなとこなんですけど。そんな生で猥雑というかキョロキョロしているとさらわれそうな「濃 厚」な環境を歩くって‥‥そんな横丁って「路地」?どちらかといえば裏路地。
そこから離れて梅園通りの路地も、『三丁目の夕日』な時代ってこんな 界隈がいっぱいあったんだぞとうさんくさい消臭ノスタルジーな連中をひっぱたけるような、そこに住むひとの濃厚な生活空間が臭ってくるような場所なんです けど‥‥これも簡単に「路地」とか「ストリート」って言えるのかな?

田舎暮らしが長くて都会なピリピリ感を忘れてたわたしは、大阪でディープなところを歩く時の緊張感を思い出し、すっかり面食らってしまい作品鑑賞もとい作品探しどころではない。。。

体勢を建て直すためにたどりついた竹瓦温泉前の町家を改造したオンパクハウスには、
 宮島達男展 Counter Voice in the Earth」がやってました。一般の方に宮島作品よろしくカウントしてもらってゼロとなったら湯泥に顔を埋める、またそれを繰り返すものです。をを、いつの間にか東北芸術工科大学副学長になられている宮島さんのアートを拝めるとは思いませんでした。直島・熊本に続いて3回目。

これを観賞してゆるっとだべりつつ別府プロジェクトの資料漁りをしてから、ハウスに置いてあった藤崎友子さんが書かれた作品の案内図があったのでそれを片手に再び出発。
ひととおり作品を観て思ったのは、作品それぞれは作家の感覚が出ていて面白いと思うのだけれども、いかんせんどのオブジェもまったく横丁の人たちが積み上げてきた「トマソン」に取り込まれてしまい何とも感慨が起こらない。

確かに個々の作品は面白い。

で もそれ以上に、横丁にあるブツやコンテンツがインパクトありすぎて、人の生きている臭い・手触りがあるので、どうしようもない。申し訳ないけど、銀座裏通 りのヨコイトの作品群は、その場の雰囲気と衝突しようにもその場になじもうにも、存在が呑み込まれてしまい全く勝負になっていない感じ。。。
四つ角にあった大木さんの作品も面白いのだけれども、すぐ側の「一二三」の雰囲気がのこる私の脳ミソにとっては何の「!」にもならない。。。くらい風景に取り込まれていた感じがした。

多分、普通に住宅地な「路地」や普通の商店街などにあったら十分インパクトはあったと思う。もしくはなじんでいたと思う。でも、相手は別府の昼間から客引きが立っている歓楽街と再開発を免れた生活臭あふれる路地。西武新宿駅裏や十三駅辺りで展示するようなもの。
うーん。作家性を帯びた現代アートがまるで歯が立たない、横丁の堆積物というか匿名の人々の営為と飾りッ気の蓄積されたアートの世界。。。というのはかなりショックな光景だった。

別府プロジェクトで主張しているマニフェストにある世界観を、既にここいらに住み・転がり・生きてきた人たちが造ってる。ここに、それを志向したアートで参戦したって勝ちっこないじゃない!

もやもやしながら、あちこちに隠れるように蠢いている?藤崎さんの作品をたどりつつ、たどりついたのが中央町のゲストハウス(外国人向け簡易宿泊所。といっても元は眼科医の建物)。
中に通されると、麻雀卓のある休憩室に藤崎さんの作品が飾られていた。ほっとしながら藤崎さんの素敵な作品をしげしげ眺めてその対比に気づいたこと。。。
「美術館を拒否しストリート(現場)を志向するアートも、結局は自分たちのルールで制御されたみえないホワイトキューブに依存する似た者同士」
ということ。
これもかなりショックな結論。

このことって、地域の中でまちおこしな再発見をアートに求めるマネジメントがこの別府プロジェクトも含めてみられるけど、それはまちが弱っている、匿名性の高い人たちの手触りが弱っている空間だからうまくいっているようにみえるってことじゃないか?
空き店舗を利用した作品なんて、空いているんだもの。何をしてもいいわけだから土足で蹂躙して会期が終わればまた空き店舗。そうした空間やコミュニティの間に場所取りをしているのがアートと思えてくる。
逆に、誰かの生活が埋まっている空間では、別府のようにはじかれるかまきとられるかがオチということだ。

念のために弁解しておくと、各作家の作品がよくないからではない。ひとつひとつの作品はステキだった。室内の展示は練られたもので作品は輝いていた。

でも‥‥。
少なくとも野外のオブジェが負けてしまっているのは、作品のせいではなく無邪気に別府の歓楽街を 相手にしてしまった、それを知ってか知らずか審査して作家を選んだマネジメントの側なんだと感じる。人々の記憶と営為が幾重にも堆積した「痕跡・軌跡」を 認識せずに、安易に外部の創作物で対峙させようとした無邪気さの恐ろしさ。審査員は東京な一見さんだから仕方ないけど、地元系の方がこの雰囲気を読み取り 作品が生きるようにマネジメントしたのかちょっと疑問。作家が可哀想でならない。

なんとなく、国内で広がりつつあるアートイベントのロジックが、別府の横丁の堆積した営為と飾りの前に脆弱さを露呈し立ち往生している様を連想させる。生半可なオルタナティブ・アートを拒絶する別府の歓楽街や路地裏の生の人間の性が強いということか。。。
逆に言うと、70年代以前の「現代アート」が如何にエネルギー溢れるものだったかを想起させる。この横丁がもっと現役だった時代に街と向き合った人たちなんだから。。。

人間の生・性の深さをまざまざと思い知らされた出来事。それと対峙する恐ろしさをまざまざを思い知らされた中で、夕方になって新たなエネルギーを注入されて光り始めた横丁。

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