« チャングムから学芸の話まで | メイン | 九州国立博物館に九州がない。 »

2005年8月 1日 (月)

死を超えて、生きていることを知る。

miyajima1多分に、九州の美術館シーンで、一番エキサイトでワクワクさせてくれてとても勉強になるのが熊本市現代美術館。
前々回の横尾忠則、熊本ブエノスアイレス化計画、前回の草間彌生展と二度もいきそびれたので、さすがに今回は逃すまいと、宮島達男Beyond The Death展に行ってきました。
通常特別展1回分のスペースに、《Death of Time》(1990-1992)/《Mega Death》(1999)/
《Death Clock》(2003)の「死の3部作」が公開されていました。図録は2回に分けて刊行されるようで、後半に何かありそう。南嶌館長のレクチャーが8/21にあるので再度行ってみたいと思います。

中身は最初のインパクトが大事になるので省き個人的なインプレッションを。
ひとつに、
《Mega Death》(1999)は死がテーマであるゆえに、死と共に「生きている」ことを直視させられる作品でした。
先々週に「いぬのえいが」を観る機会があって、飼い主から犬をみてきた視線に対し、犬から飼い主をみてきた視線がクロスするという小品を観たせいもあるのだけれども、作品の中にうごめく生(そして、全てをぬぐい取るように襲いかかる無機質な死の瞬間!)に見入られて、その中に自分の生も組み込まれるような、視られている、という感じ。
最初は畏怖であるのが、やがて自分の生を相対的に直視する視線を獲得できる体験ができたわけです。しかし、そうした至福も突如奪われる恐怖もそこに。。。

《Death of Time》(1990-1992)は、20世紀の時系列の中に自分を置くことで自省の時間を得る体験ができました。ここでも、連続する時系列にある空虚な闇は、直接的でないにしても、どうしても歴史的連続性でみるわたしの思考にクサビを打ちこむインパクトを静かに与えるものでした。

miyajima3そして、《Death Clock》(2003)では、自分の生を目の前に直視させられる貴重な体験をさせてもらいました。自分の生が作品の中に取り込まれて明示されるというのは妙な気分です。

撮影していいというので撮ったのが←コレ。
ちなみにこの作品はオールMacづくし。
最新のMacテクノロジーがあちらこちらに。
ディスプレイはMacのシネマディスプレイ。
その下にはMacminiがつながっている。
参加型のアートなので、それ用のパソコンにはiMacG5とiSightがセッティングされていた。あんまりワクワクするのでMac売り場のように触っていたら注意されました(^^;)
宮島達男さんの作品は直島でも拝見したことがあって今回は2回目、いずれもランダムなデジタル数字が様々に組合わせることが多く様々なメディア(動的であれ静的であれ)を駆使されるのですが、Macminiみると、その処理を行う装置やシステムも電子技術の進展とともに軽量化されることで表現が広がるンだ、という印象を受けました。

戦後が60年経ち、大量殺戮の20世紀も未だ解決しないまま迎えている2005年。多くの情報が溢れているのに、そこでは生・死の生々しさを体験できない・させてもらえない(現在や過去の戦争を訳知り顔に手前勝手に解説する人たちの虚ろなこと!)中で、生きていることを直に体験するインスタレーションを得たことは貴重な経験でした。

あまり現代美術で自分が何か新たな位相を得たという経験はなかった(不安にさせられる、戸惑うことはあったけど)のですが、今回は本当に自分の生きていること、そして死を、生まれて始めて直感的に感じることの出来た貴重な一日だったと思います。
それだけでもこの日に足を運んだ甲斐があったと思いました。

トラックバック

このページのトラックバックURL:
http://app.blogcoara.jp/t/trackback/143624/6777172

死を超えて、生きていることを知る。を参照しているブログ:

コメント

コメントを投稿

Foxkeh! フォクすけ!


  • Firefox ブラウザ無料ダウンロード
Powered by Six Apart