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2005年8月25日 (木)

九州国立博物館に九州がない。

top_logo今度、10月にオープンする九州国立博物館(九博)には、九州島のポータルミュージアムとしての機能を期待しています。
ところが、開館特別展やあれこれ情報をみる限りにおいては、この期待は半減していて様子見といった印象となっているのが正直なところです。フタを開けてみないとわかりませんがとりあえず様子見かな?

何しろ、開館特別展の名称が、
「美の国日本」ェェ(;゚Д゚)ェェ

ときた日には、すっかり落胆してしまいました。九州にできる国立博物館の開館特別展が「日本美術史@九州テイスト」では話しになりません。これが第一印象として決定的にマイナスに働いています。
まるで、

「九州人には都の美術品に飢えているからみせてやったら、九博できてよかったと喜ぶだろう。」(*´ェ`*)
と言わんばかりの内容です。バカにするにも程がある展示内容です。東北国立博物館ができたとしてこんな展示したら確実に地元から突き上げられますヨ。
( ちなみに2回目は中国文明展を元旦からするそうで。)

というのも、九州に来て14年。ワールドカップでウロウロして思ったのは「九州は関西や関東へ行くのと同じくらいソウルや上海に近い」ということ。そして九州の歴史と文化と芸術を考えると、そこには古代から現代まで脈々と続く「ワンダーランド九州」が確実にあるという確信があるからです。
そして世の東西を問わず多くの人々がこの九州島を往来し文化が行き交ったたことを思えば、それは中央的な日本史の枠組みを超えて、日本史とアジア文明史をつなぐ接点としてのスリリングなステージ(時として政治に巻き込まれかねませんが学問はそれくらいスリリングでないといけません。)の大いなる可能性がそこにあると考えるからです。

九州島を一言でいうなら、はまさにいろんな文化が混ざり合いひとつのテイストを生み出す、
「チャンポンワールド」(・∀・)

なんであります(σ・∀・)σゲッツ。
16世紀には、港町にはチャイナタウンや朝鮮人(朝鮮王朝という意味ね)、琉球人、東南アジアにポルトガル人、スペイン人まで雑多に居住し、内陸でも中世神道、仏教、基督教などが共存していた社会。制限されていた近世でも長崎や対馬、薩摩に琉球国と外部との共存にあった社会。
これを思えば、九州のコンセプトはまさに
「チャンポンワールド」でしょう (`・ω・´)シャキーン!

開館記念展は、あちこちから借りたとしてもやはり我々はどのようなミュージアムたるのかという態度表明が求められます。ここは岡倉天心以来のコンセプトを踏まえて練り込むべきであるはず。
 
それが、あーた。『東洋の理想』をうたった岡倉天心 が唱えた博物館に九州もアジアも捉えようとしないありきたりの開館特別展で、よりによって思想性の無さをさらけ出して日本美術史を九州テイストにしましたぜ、では館長以下クビですよ。ホント。
九博はとかく収蔵品云々言われるようですが、自分たちのミュージアムの態度表明をすることで集めていけばいいのです。これから経済が過疎化していくニッポン、まだまだ美術工芸品・基調史料は保存の手を求めてマーケットに出てくるでしょう。それにおいても、態度表明が欠かせません。
興味深いのが、独立法人故からか

「学校より面白く、教科書より分かりやすい」博物館。
「知のディズニーランド」

となかなか今の文化庁の方針に適した優等生的なコメントがトップから口に出てきます。おそらくこれが態度表明なのでしょう。知のディズニーランドとはなかなか文部官僚テイストぷんぷんでよろしい。
館長からして、他の博物館よりも観光業者が先に口にでるのですから、何よりまずはお客さん、という意識が強そうです。太宰府天満宮とセットにしてねと言うことでしょう。まぁ、それもアリですけど、それなら国立じゃなくてよござんしょうに。長崎県立歴史文化博物館のように優れた展示技術を持つ業界に委ねるのが的確と思いますが。あまり観光客を意識しすぎると吉野ヶ里公園(これも国立)の二の舞いになりそうなので要注意。
それでこれまで誘致運動を続けてこられた文明のクロスロードたるmuseum-kyushuのみなさんは納得されるでしょうか?

さて、明確な態度表明を以てオープニングから進めていったミュージアムが九州になかったかと言えばウソになるわけで、2002年に開館した熊本市現代美術館は福岡アジア美術館など多くのアートシーンのステップの中で、もっとも明確な「態度表明」を以てオープニングを飾り現在に至っています。わたしのお気に入りであると共に、そのデザインの生み出す精神を手本としたいと常々思っているミュージアムです。

ここはオープニングは「ATTITUDE 2002」館としての態度を世界に表明することをオープニングで行っています。熊本市ならば熊本でもよかったし有名どころでやってもよいはず。しかしまずは自分たちの態度を表明することをしています。そして2つ目に美術館設立の下となった地元作家「井手宣通の世界」を紹介し館のルーツを示しています。そしてきわめつけは第3弾でタイトルはずばり
「九州力-世界美術としての九州-」
です。熊本市から名刺代わりの挨拶といった感じで、九州のアートシーンのポータルを目指す態度表明がみえてきます。


これを思えば、九博も「九州力」のように「九州」をテーマにした特別展示で世に問わねば、いったい彼らは準備期間中を何してきたのか?と言われても仕方ないと思います。結果として東博や京博の作品が多数きても構わない。しかし、九博には「九州」を捉えようとする気概がまるでないのです。そこにあるのは、独立行政法人としてうまく事業を行う、如何に来館者を確保するか?という目先の官僚的下心しかないのですね。
それにしても、九州を捉えずして、いったいどうやってアジア文明の中で自分たちの立ち位置をみつけられるというのでしょうか?日本人スタッフで固めてアジアから誰も据えないというのも何ともです。ここでみる展示はあくまでも日本史からみた視点でしかないのです。

ただ、それぞれの機能ではいくらか期待を込めて成果を待つ分野もあります。そのひとつに文化財を守り調べるポータルを目指す方向性は歓迎されますが、ならば、やはり九州をどう捉えるのか言っていただかねば、奈文研九州支店ではどうしようもありません。
もうひとつ、様々な博物館を楽しむプログラムづくりでは、米国のミュージアムからハンティングされた方がおられるので期待されるところです。が、この試みも重厚長大な官僚的体質がプンプン臭うシステムでどこまで発揮されるか心配です。どちらかと言うと福岡市博物館規模の方がうまくいくような気がしますが、そうした心配を裏切るかたちで九州での実践成果が出ることを願わずにはおれません。
この辺りの成果を期待しつつ、とりあえずは様子見というのが、現在のわたしの思うところです。

チャンポンワールド九州、文明のクロスロードのネタをあたためながらみておこうと思っています。

2005年8月 1日 (月)

死を超えて、生きていることを知る。

miyajima1多分に、九州の美術館シーンで、一番エキサイトでワクワクさせてくれてとても勉強になるのが熊本市現代美術館。
前々回の横尾忠則、熊本ブエノスアイレス化計画、前回の草間彌生展と二度もいきそびれたので、さすがに今回は逃すまいと、宮島達男Beyond The Death展に行ってきました。
通常特別展1回分のスペースに、《Death of Time》(1990-1992)/《Mega Death》(1999)/
《Death Clock》(2003)の「死の3部作」が公開されていました。図録は2回に分けて刊行されるようで、後半に何かありそう。南嶌館長のレクチャーが8/21にあるので再度行ってみたいと思います。

中身は最初のインパクトが大事になるので省き個人的なインプレッションを。
ひとつに、
《Mega Death》(1999)は死がテーマであるゆえに、死と共に「生きている」ことを直視させられる作品でした。
先々週に「いぬのえいが」を観る機会があって、飼い主から犬をみてきた視線に対し、犬から飼い主をみてきた視線がクロスするという小品を観たせいもあるのだけれども、作品の中にうごめく生(そして、全てをぬぐい取るように襲いかかる無機質な死の瞬間!)に見入られて、その中に自分の生も組み込まれるような、視られている、という感じ。
最初は畏怖であるのが、やがて自分の生を相対的に直視する視線を獲得できる体験ができたわけです。しかし、そうした至福も突如奪われる恐怖もそこに。。。

《Death of Time》(1990-1992)は、20世紀の時系列の中に自分を置くことで自省の時間を得る体験ができました。ここでも、連続する時系列にある空虚な闇は、直接的でないにしても、どうしても歴史的連続性でみるわたしの思考にクサビを打ちこむインパクトを静かに与えるものでした。

miyajima3そして、《Death Clock》(2003)では、自分の生を目の前に直視させられる貴重な体験をさせてもらいました。自分の生が作品の中に取り込まれて明示されるというのは妙な気分です。

撮影していいというので撮ったのが←コレ。
ちなみにこの作品はオールMacづくし。
最新のMacテクノロジーがあちらこちらに。
ディスプレイはMacのシネマディスプレイ。
その下にはMacminiがつながっている。
参加型のアートなので、それ用のパソコンにはiMacG5とiSightがセッティングされていた。あんまりワクワクするのでMac売り場のように触っていたら注意されました(^^;)
宮島達男さんの作品は直島でも拝見したことがあって今回は2回目、いずれもランダムなデジタル数字が様々に組合わせることが多く様々なメディア(動的であれ静的であれ)を駆使されるのですが、Macminiみると、その処理を行う装置やシステムも電子技術の進展とともに軽量化されることで表現が広がるンだ、という印象を受けました。

戦後が60年経ち、大量殺戮の20世紀も未だ解決しないまま迎えている2005年。多くの情報が溢れているのに、そこでは生・死の生々しさを体験できない・させてもらえない(現在や過去の戦争を訳知り顔に手前勝手に解説する人たちの虚ろなこと!)中で、生きていることを直に体験するインスタレーションを得たことは貴重な経験でした。

あまり現代美術で自分が何か新たな位相を得たという経験はなかった(不安にさせられる、戸惑うことはあったけど)のですが、今回は本当に自分の生きていること、そして死を、生まれて始めて直感的に感じることの出来た貴重な一日だったと思います。
それだけでもこの日に足を運んだ甲斐があったと思いました。

Foxkeh! フォクすけ!


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