あれこれ告知板。

日々、城郭跡の史料的活用を実践し、真の学際的研究たらんとする城館史料学の長い道のり。

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※『豊後御討入』よろしく、あれこれ・ラボは豊後岡城の麓・近戸谷に居を構えて活動しています。

■あれこれ・ラボ (日曜版)へようこそ!■
城館史料学からいろんな領域へ、『痕跡から読み解く研究日誌』あれこれ・ラボへようこそ!
ハコ芸&エコ芸の現場
から異動となり、ただいまフリーな日曜研究者モードで中国・九州方面で調査活動進めてます。※「歴史とアートの出会い」はお休み
「城館史料学と縄張り屋家業」拙稿はコチラ)で城館史料学と城郭跡からの文化財学構築を目指し、日々、精進しています。
前の仕事場に私宛の郵便物を送らぬよう、日曜モードへのあれこれは自宅宛か、お電話・メールで。

■あれこれ・ラボ のトピックス■
☆平成22年度後期、別府大学(非常勤)で『城館史料学概論』(集中講義形式)出講しました。
90分×3回の12回の集中講義で縄張り研究ベースの城郭研究「城館史料学」を専門的に掘り下げました。今年度は講義録を整理します。 
 
倭城研究シンポジウムⅡ 倭城〜本邦・朝鮮国にとっての倭城とは〜
 で報告しました。 
12月10日(土曜日)・11日(日曜日) 場所:九州大学旧工学部本館 講堂@箱崎キャンパス

■書籍のご案内■
混浴温泉世界—場所とアートの魔術性—

ボクが直接関わっていませんが2009年のコンヨクを知る決定版!カバーページのたくさんの人の集合写真に交じってなぜか居たりします(微笑)。
福岡県の城郭—戦国城郭を行く—福岡県の城郭刊行会編、銀山書房
福岡県の中世城郭についての最新成果が納められた一冊。縄張り図も多数収録しています。福岡県内の城郭のガイドブックとしてどうぞ。
☆『日本歴史752号(2011年1月号)』

吉川弘文館『日本歴史』の新年特集に城館史料学からみた城郭跡整備の問題点について寄稿しています。よろしければご高覧下さい(._.)オジギ
『歴史読本2011年5月号』新人物往来社
特集「日本全国、名城の条件」にて、杉山城、滝山城、本佐倉城と姫路城、赤穂城、五稜郭を執筆しました。

2012年1月27日 (金)

「赤松の城を調べて」チラシをゲットしました。

今日、仕事のついでにコピー機を借りに文化財センターに寄ったら、
姫路市文化財センター冬季企画展「赤松氏の城を調べて」のチラシが来ていたのでゲットしました。
写真の坂本城跡の土塁と置塩城跡のしっかりした石垣が印象的。

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播磨坂本城は姫路市教委で、置塩城は旧夢前町→姫路市で兵庫県教委と町教委により調査が進められてきました。
現在はともに姫路市内に位置する戦国・織豊期城郭ということでまとまった展覧会として企画されたようです。
姫路市教委ですので、
これまでの成果を紹介する形で城郭研究ベースのしっかりした展示となると期待してます。
期間中には、置塩城跡や書写・坂本城跡の史跡見学会や城郭談話会の山下晃誉氏による「播磨の山城を考える」の講演(3/18)などが開催されます。
1/22〜4/15まで。ぜひ足を運びたいと思います。

ウチの文化財センターもメモリアルな年にこれまでの城跡の調査成果で重厚な展示をやってほしいですね(微笑)

2012年1月26日 (木)

文禄・慶長期の豊後岡城・竹田城下と支城体制。

2012年から、新たにカテゴリーを起こしました。
題して、「豊後岡城・竹田城下と支城体制」

これまでの調査成果から、約400年前の文禄・慶長・元和期を中心に豊後岡城と城下の出城・櫓場、中川領内の支城を紹介します。
そして、城郭からわかる中川氏家中の動向や近世初頭の社会情勢についても紹介できればと思っています。

まとまったら、何かの形に整理したいと思いますので、お楽しみに。

2012年1月25日 (水)

下原門跡、1月巡検とその所見。

年末に伐採されていた東ノ郭(御廟所)跡、下原門跡について、仕事を終えて近戸の自宅から登城し夕闇巡検してきました。

豊後岡城の三口で最も緩斜面(車で登れる市道が通っている)に面した出入り口である下原門。
城攻めの際、真っ先にねらわれる可能性が想定される城門です。
それ故、中川氏は築城に際して、志賀時代の岡城だった東ノ郭を筆頭家老に預けると共に、
東ノ郭から開口部側に向けて、L字の石塁による桝形虎口を何重にも連ねる連続外桝形虎口を構え厳重な防御を施しました。

このことは既に拙稿や『名城百選』にて調査成果を公表しています。
筆頭家老に任せた曲輪から続く過剰なまでの桝形虎口を重ねる虎口プランは全国でも貴重なものです。
その評価は、写真の現況遺構から虎口プランをきちんと読み取ることが欠かせません。
他の城郭以上に、豊後岡城の評価に際しては、調査事業側に城郭遺構把握(縄張り理解)の力量が問われます。

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今回、上掲の写真のように公有化により伐採作業が行われ、拙稿の縄張り調査で解明された姿が現れてきました。
ところが、現地を歩くと下の写真のように伐採作業の際に虎口付近の石列が動いたとみられる形跡がありました。

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     西からみた写真        ↑この位置から動いたとみられる。

千田嘉博氏らの『城館調査ハンドブック』でも指摘されるように、遺構評価のポイントとなる虎口周りの適切な保護は重要。
また、下原門においては微地形の読み込みに併せて現況の石列を追うことも虎口プラン解明に必要です。
そうした配慮が必要なのに、
写真の他にも、切り倒した木材なども周辺に遺された石列を避けることなく石塁現況遺構の上に重ねたりしていました。
従事者や指導する委員の先生が縄張りをわかっているならば、虎口周りの石列やL字の石塁を痛めない配慮がみられたはずですが。。。

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↑2011年3月段階の東側からの写真です。草むらに石列が直線上に点々とあるのがわかると思います。
せっかくの整備が、学術的な判断材料を損ねるようではいけません。
豊後岡城の史料的価値を内外に知らしめるためにも、事業側には全国の城郭研究の成果に耳を傾けていただきたいと願うと共に、
今後もすばらしい城郭遺跡の適切な保全の一助となるべく、随時、私見を示していかねばと思う次第。

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なお、虎口の評価を抜きに、絵図資料や「御年譜」など文献史料を並べて「番所」の平面復元で完了、とならないようにも願いたいものです。

2012年1月24日 (火)

慶長期中川領の調査を進めています。

今日はとある酒席にて、「ここに住んでいて、今年の抱負」がテーマでした。
ので、慶長期中川領の本城・城下・支城体制について、城郭遺構調査を柱とした歴史研究からわかったことを少し披露してきました。
わかる方にはいい反応をいただきました。
荻台地の歴史の道も「あれがそうなのか」と反応いただき、実にありがたいことでした。

400年前の慶長期中川領は豊後岡城以外にも、城下に出城・櫓場を構え、関ヶ原戦前後には領内の要所に軍事的な拠点となる支城を築いていました。
従来は大藩クラスが本城・支城体制を整備するというイメージでしたが、中規模の中川領でも案外改修を加えた事例が見つかるんだなという成果。
西国諸藩なら、関ヶ原前後に何らかの形で支城が整備されていた可能性があるということを指摘しました。
ですので、それぞれの地域で、周囲の在地系城郭と比べて縄張り技術の上で「浮いた事例」があったら、豊臣系大名による改修の可能性を考えましょう、
というお話。

さて、私の方は、一昨年に野に出されましたが、その分、麓の近戸に付城を構えて、本城だけでなく上角台地の出城・櫓場と領国内の支城の調査を進めてきました。
日頃は一般業務に時間を割かれても、それ以外の時間を用いて以前よりも着実に成果を提出させていただいています。
「私は動かないと思いますが」と自負されたご専門の方からもそろそろ十分な時間を現場に費やされた日頃の研究成果を提示していただき、衆目の前で議論したいものです。(私信)

2012年1月23日 (月)

旧正月。

今年の旧正月は、太陽暦で1月23日です。
ようやく太陰暦で壬辰年がはじまります\(^o^)/
長崎のランタンフェスタ、行きたい。

私的には太陽暦な正月から三週間は缶詰め状態でしたので、ちょうど太陰暦な正月から再起動といった案配です。
既に2月に向けて、軽いジャブを準備しています。
乞うご期待。

新春早々から寒波がやってきます。
九州の内陸でも真冬日になりそうな勢いですが、寒い中、遅れを取り戻すべく集中して原稿をまとめていきます。

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2012年1月10日 (火)

建築を観る、読む、計る。

たまたま偶然なことですが、去年からたくさんの建築をみる機会を得ました。
その数は、90軒近くになります。
場所をみて、立地を押えた上で、
その建築を観て、図面(立面図・平面図など)と照合して読み込み、時には計る作業。

残念ながら、建築家が手がけたものはほんの数点なのでJAな建築評論は無理ですが(^^ゞ、
その代わり、すべからく現代の「人の営み」が詰まった良質の資料群です。
なので、遺跡や古建築から当時の人々の様子や社会を資料として読み解く手法を用いる
歴史屋さんとしては、目馴らしも兼ねていい訓練となっています。

実測をして、数値処理をしてデータベースをこしらえる作業を積み重ねることで
建築史や建築計画・都市計画の研究に応用することが見込まれる有益なトレーニング。
何度も申していますが、古文書だけに依拠しない方法で歴史研究などをしてきた身ですので、
城郭跡などの遺跡や構築物はもちろん、それらの構築物の周囲の土地・地理情報も
すべからく人間の営為を現す「歴史資料」として受入れる素地があります。
もちろん、それらの資料も取り扱い上の制約はありますが、資料に触れる機会に巡りあったことは幸い。

人の営み(痕跡)を読み解くことをモットーに、探究心があればどこでも学ぶことが出来る。
それを感じる今日この頃。

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2012年1月 1日 (日)

謹賀新年2012

旧年中はひとかたならぬご厚情を賜り、 誠にありがとうございました。
本年も相変わらず、よろしくお願いいたします。
皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

歳々平安日、年々如意春!
平成壬辰年 元旦

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2011年12月31日 (土)

村をフィールドにムラを見据える。

2011年はムラ(業界)ではなく、村を拠点に城郭遺構、及び地域資料情報を駆使して調査を重ねた1年になりました。
この経験は、ムラに居るとみえない着眼点を獲得するのに大きく役立ったと思っています。
中・近世移行期研究のフィールドは村落が主な舞台。
研究室の机上や数日のフィールドワークぐらいでは、歴史資料の背景にある基層はなかなかみえてきませんが、
中世以来の人々の営みが続く山村に身を置き城郭調査を重ねることで、そうした一端を体感することができています。

城郭調査では、遺構そのものの調査に加えて、日常何気なく取り扱っている資料情報を歴史資料として取り扱うことがあります。
時折、それらの成果から「あなたの見慣れた景観にはこういった過去の歴史が刻まれているんですよ」とご案内することがあります。
そうした時に、地元の方がみせる驚きの表情に接することが学芸や学業の身にあるものとして仕事冥利の尽きる瞬間。
日頃見慣れたなんでもない景観が、その話を聴いた後では異なってみえてくるような体験を皆さんに提供することも学芸の役割です。

去年も申しましたが、城郭研究そのものは民間学をベースに歴史学・考古学の手法を合わせて積み上げてきた研究です。
古文書や埋蔵文化財を扱う機会を剥奪したら途端に研究ができなくなるようなヤワな分野ではありません。
本年も
天正〜慶長期を中心とした中・近世移行期研究を中心に、休日を利用して西日本の城郭遺跡の調査研究を行い、
併せて、地域で蓄積された資料情報をもとに圃場整備で消滅した城館遺跡の復元的調査も合わせて進めてきました。
それに併せて、11月の南北九州城郭研究会@天草市、12月は倭城研究シンポジウムに参加して報告と議論を重ねながら、
次の年に向けて、さまざまな論点や調査成果を提出できるよう準備を進めているところです。


核の冬の時代にあって、山村に身をおいて学んだ2011年の経験は大きな糧となりました。
2012年は、この研究室の机上では得られないフィールドワークにより着実に成果を積み上げ、
村から既存のムラへ鋭く斬り込む研究活動を進めていきます。

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2011年12月25日 (日)

荻台地の歴史の道。

23日は城館跡の現況調査と併せて、玉来→高城→馬場→藤渡→木下→滝水へ通じる荻台地葎原郷の往還を行きました。
下原城跡と弁当城跡がちょうどこの往還に沿って位置するからです。2つの城跡を考える上で、この往還の性格を考えることが大事だからです。
豊後国と肥後国をつなぐこの往還は、現在も県道や市道となって通ることが出来ます。
岡藩領を描いた近世の絵図に朱色で記された主要な往還ですが、今日ではあまり知られていません。
しかし通ってみて、先史以来の豊肥国境の台地を一体的につなぐ歴史の道だと言うことが理解できます。

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道中には旧万徳寺の妙雲寺や荻神社など葎原郷ゆかりの史蹟があります。
中世に開基された万徳寺は元禄年間に竹田の七里に移転するまで荻の台地にあり、
豊後国直入郡から肥後国阿蘇郡にかけて多くの宗徒を抱えたとされます。
近世になり、豊肥間を宗徒が往来することが問題視されたため、内牧に別院を営んだという記述は興味深く拝見。
一方、荻神社はもともと下荻岳にあったとされる神社。麓の政所の字宮田からここへ移転したとのことです。

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さらに、国境まで走らせるとJR滝水駅に出ます。
滝水集落には、肥後藩・岡藩の境目裁定の際に植えたとされる「御論木跡」の看板がありました。
貞享年間に幕府立ちあいのもと、馬渡川上流の岡藩領滝水村(下滝水)と肥後藩領滝水村が画定された場所。
その際、御論木が植えられ、それより下流の湧水は下滝水が供与したとのこと。
近世初頭の曖昧な藩境が次第に行政区画として画定され、今日の大分県竹田市と熊本県阿蘇市まで続くことがわかる景観です。

同時に、荻台地の方々が他の直入郡の人々と比べても波野・阿蘇方面との関係の深いことからもわかるように、
今日もなお、台地がひとつの文化圏を構成しており、そうした文化圏を支える役割の一端をこの往還が担ってきたものと思います。
その観点からも、この往還が「荻台地の歴史の道」として注目されれば良いのにと思う次第。
こうした中世以来と思われる主要な往還に沿って、弁当城と下原城が築かれていることがわかったことは大きな収穫。

加えて、こうしたエコミュージアムのような歴史的景観について、ハコ芸や文化財的業務では体得できなかったものが
土地勘を鍛え地理情報の集積から理解を深めることで体得出来たことはなかなか興味深い体験。

2011年12月24日 (土)

三連続外桝形虎口の下原門。

24日は豊後岡城に踏査。
行ってみると、下原門跡の樹木が伐採されて見やすくなっていました。
私が拙稿[2007年、http://ci.nii.ac.jp/naid/110007043710]で、下原門と併せて三連続の外桝形虎口と
申していた豊後岡城の東の城門です。

まずは、拙稿をもとに、2008年の村田修三編『日本名城百選』(小学館、2008年)に掲載した豊後岡城下原門部分の縄張り図。
黄色の連続桝形虎口部分の形状にご注目。おおむね、城郭研究の間では認知していただいている次第。

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24日の昼前に撮影した、伐採した下原門付近の写真です。

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ちょっとわかりづらいですが、『名城百選』で示したような連続外桝形虎口の遺構があります。
奥に┏ 状の「腕」があり、手前から真ん中に┓状の「腕」があるのがわかるでしょうか。

さらに奥には下原門を形成する三つ目の「腕」があり、これらで三連続の出撃路である外桝形虎口を形成します。
以前、公表した縄張り調査の通りに現況遺構が残されていることがあらためて確認できました。

わかりづらいので、手前ふたつの「腕」について、補助線を引いてみます。

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いかがでしょうか。

主郭からの城道と並走して東ノ郭(御廟跡)から押出す出撃路となっています。
全国でも興味深い事例であり、豊後岡城の独特な縄張りプランの特徴が如実に現れた遺構になります。
縄張り調査による外桝形虎口の評価を提示することを以て、今後の整備に際して遺構の性格を踏まえた慎重な遺構保全を要望します。


☆追伸
御廟所跡となっている東ノ郭の北西側に続く第2郭付近では竹薮の伐採が行われています。
ところが絵図にもある水ノ手の虎口と土づくりの櫓台跡(写真、根元の盛り上がり部分)に伐採した竹が積まれた状態にありました。
遺構保全の観点から、現存遺構に配慮した伐採作業を強く要望するところです。

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2011年12月23日 (金)

荻台地の城館、鴫田城と弁当城を踏査しました。

23日は荻台地の城館跡(鴫田城と弁当城)を踏査してきました。
鴫田城は荻台地の南方、柏原郷の台地の先端に位置する丘城。
一方、弁当城は荻台地の北方、葎原郷の西側にあり下荻岳の麓に位置する平城。
なお、前述の下原城跡を含めて、弁当城など葎原郷の城館を考える際には、
玉来→君ヶ園→高城→中行年→馬場→藤渡→政所→木下→滝水→波野と通る往還を踏まえる必要があります。
荻台地の歴史の道とも言える玉来〜滝水間の往還については別途アップします。

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鴫田城跡は現在、周囲が土取りで破壊されていますが山上部分が残されています。
文禄期に中川家の与力となった田原紹忍が入ったとされますが、山上は特徴的な遺構は確認できませんでした。

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一方、弁当城跡は写真にある玉来〜滝水間の往還沿いにあります。
文禄年間に葎原郷に所領を得た宗像掃部(中川家の与力)が拠ったとされます。
写真右奥手の小山か、字「弁当城」のある左側の圃場整備された迫地のどちらかが比定地とされます。
この日は両方とも確認してみましたが、小山の方は目立った遺構はありませんでした。
そこで、字「弁当城」が左奥手にみえる下荻岳の麓であることから、こちらの方が比定地の可能性が高いと判断しました。
類例として、久住の都野方面に割拠した朽網氏が戦国末期に築いた居館も似たような地勢にあり、
宗像掃部が往還沿いに展開した葎原郷の後背地を押える立地に居館を配したものと思われます。

この2つの事例を踏まえると、やはり馬場(葎原)から藤渡川を挟んで北東に位置する
新藤の下原城跡は少し様相が異なります(この前、地籍図で復元した城跡です)。

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単郭の丘城である鴫田城跡や平地城館の弁当城跡など荻台地にみられる城館と比べると、
2.5m程度の土塁が台地を直線で区切る下原城跡は「浮いた存在」にみえます。
 

滝水・波野から万徳寺のあった馬場(葎原)を通り玉来に通じる往還に近接して位置したことを鑑みると、
下原城跡はより広範囲の防禦体制のもとで整備された城郭跡ではないかと考える次第です。  

2011年12月22日 (木)

歴史地理学的な方法による城郭跡復元をしました。

城郭研究のバイブル、『城館調査ハンドブック』のⅢ「歴史地理学な方法による調査」では、P75〜86に
地籍図による調査の概要が記されています。
「地籍図とは、一般に役所・役場の税務課や法務局に置かれている、固定資産税や土地登記の台帳に付随する地図であり……」
と説明があって、大学院生の頃24才だった城郭研究やり始めなボクは「ふむふむ」と思いながら読んでいましたが……
それから15年。。。。

城館を研究している自分が、所轄する役場の部署に居る自分に訊ねて、自分で非番に法務局へ行って調査し、
古い閉鎖地籍図を自腹でコピーして、時間外に貼り合わせて作成するとは思いませんでした(爆)
一般事務へ異動の際に、千田嘉博さんに「これで地籍図で調査し放題ですね」と励まされた通りに実践。

ということで、桑原和男さんのようなひとり芸で調査して作成したのがコレ↓

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圃場整備でほとんど破壊されている豊後下原城跡の土塁ラインを地籍図の貼り合わせで復元。
地目の色分けは、土地の担当者さんにルールを訊ねてその通りやりました。
 緑:山林、 黄緑:芝地、 黄色:畑(田含む)、 薄黒:宅地、 道:茶色、 水路:青 です。
 ※この図では、道と水路は塗ってません。
みての通り、左から右へ伸びる台地の先端を、タテに仕切る土塁跡が山林・芝地の地目で浮かび上がりました。

ちなみに、中の人の自分に訊ねてみると、私見ですけど……と前置きつきで。
役場や法務局で地籍図をみることはできるけど、飛び込みは避けて、
事前に問い合わせして何をしたいのか説明して理解してもらうことが大事。
ふつう、そんな目的で来る人は居ませんし、間違えても城郭研究のわかる人が中に居るという「奇跡」は普通起こらないので、
窓口応対の方に何を依頼しているのか認識されない可能性が高いです。
『城館調査ハンドブック』の該当部分のコピーなどを持っていくと、担当が上に諮る際にも使えてよいかもしれません。
また、本業と別に閲覧の手を煩わせるので、
法務局・支局なども登記の人や土地情報を調べる人たちでせわしないので、
週明けや週末は避けて、平日の昼下がりぐらいか朝イチが落ち着いていいと思います。
役場の場合は、賦課業務で繁忙期・せわしない冬から春はできれば避けた方がよいと思います。

ということですので、ご参考までに。

2011年12月19日 (月)

『中世城郭研究』第25号に書きました。

今年はセミナーに行っていませんでしたので、先日倭城研究シンポジウムにて『中世城郭研究』25号を注文したところ、
去年のセミナーで報告しましたので、その概要を執筆した分で1冊、送られてきました。
ということで、去年のセミナー報告を踏まえた概要について、
「西南日本の城郭の横矢掛りから考える-城郭研究と年代観-」を6頁書かせていただきました。
よろしければご一読頂ければ幸いです。

なお、別件。巻末の一言は、私を現在の立場へ追いやった方々に対する布告です。
今日の城郭に関する活発な研究を直視せず、地方において史跡整備を自分たちの仲間内で仕切る人たちに向けてのもの。
現場から外せば何もできないだろうと館運営の「禁じ手」に手を染めた方々ですが、在野学をベースとする城郭研究者には無意味。
こうした手合いは幾重にも包囲した上で、必ずや攻め落とすつもりで居ます。

そういった思いを汲んでいただければ幸いです。
今後ともご支援いただいている皆様からのご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いします。

2011年12月18日 (日)

法螺貝城を調査しました。

週末は、竹田市内の下田北須郷地区にある法螺貝城跡を調査しました。
芹川ダム湖の南方、芹川と馬門川の合流点に面した小高い山上にあります。
須郷集落を抜けた先に作業道があってアプローチできます。

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写真は作業道の入り口。城跡は中央の山ではなく、写真より左手奥です。

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土づくりながら、しっかりした切岸と直線的な塁線。南側は3m幅の土塁があります。

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笹を刈って虎口の形状を確認。両側に土壇を持つ両袖桝形です。

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2日間調査して、夕方には仕上がりました。次は清書です。
平成14年頃に大分県悉皆調査で一度見学したことがありましたが、
今回、自分で調査してみて、織豊系縄張り技術による城郭であることを確認。

公領と岡藩領の境目に位置する法螺貝城は立地からみても岡藩の支城と言って良いでしょう。
これで
小牟礼城に続いて2つ目。どちらも今のところ文献史料には記述はないものの縄張りから裏付けることのできる城跡。
岡藩初期、関ヶ原前後の緊張関係を今日に伝える貴重な遺跡になりそうです。
確認調査して材料を揃えてから、岡藩初期の支城について一本にまとめます。

2011年12月15日 (木)

豊後岡城の縄張り調査と報告を進めています。

自宅裏の一番身近な城郭跡、豊後岡城を中心に直入郡の城郭と中・近世移行期研究も暫時進めています。
特に、最近はリボジトリから拙稿がダウンロードできるようになりありがたいなあと思っています。

今春に投稿した別府大学『史学論叢』41号の拙稿「豊後岡城と鬼ヶ城・木戸の城について : 近世城郭と城下の関係を考える手がかりとして

は別府大学のリボジトリからダウンロードできます。

http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=sg04101

こちらは、豊後岡城の城下に広がる武家地にある2つの出城について論じたものです。
なかなか興味深い事例ですのでご意見いただければ幸いです。

その前の38号に投稿した拙稿「縄張り調査と城郭跡の資料的活用 : 豊後岡城東ノ郭の縄張り調査を通して」も同じくダウンロードできます。
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=sg03804
こちらは、豊後岡城が主郭(天神山)と東ノ郭が一城別郭的な曲輪配置になり主要部を形成する独特な縄張りをもつ近世の織豊系城郭である
ことを指摘したもの。
併せてご意見いただければ幸いです。
また、要点については、小学館から刊行された『日本名城百選』の豊後岡城の項にもまとめています。
この他、『日本歴史』752号
(新年特集 史跡・景観の保存と活用)に寄稿したものとして、
「中・近世城郭の構造分析と城郭跡の保存・整備--城館史料学の視点から」でも触れています。


これに、城館史料学に投稿した「豊後岡城と竹田城下の櫓屋敷について—織豊取立大名中川氏と近世城郭・城下の考察—」が掲載されれば、

豊後岡城の縄張り構造と初期藩政の要点をまとめた論考シリーズはとりあえず取っ掛かりの目処はつきそうです。

今後も、H町のYさんのように、豊後岡城なら○○さん、と言っていただけるよう精進したいものです。

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2011年12月14日 (水)

1979→1999・2011→

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倭城研究シンポジウムに前後して、1976年に当時軍政下の韓国に倭城址の調査をした
中世城郭研究会を母体とする倭城址研究会の『倭城址Ⅰ』が古書に出ていたので仕入れました。
事前に九州大学の某研究室で読みましたが、帰ってからじっくりと再読。

村田修三氏の1979年報告が出る直前の時期に、今日でも遜色ない調査成果が提出されていたことに感銘を受けました。
そして、当時の倭城址研究会メンバーの年齢が30代前半なことにも驚き。
今日、ボクでも簡単に倭城址を見学できるほどに韓国は近い国になっていますが、当時の困難さを思うとあらためてスゴイと思う次第。
そうした感慨の中でじっくりと拝読。この倭城研究が端緒となり、90年代後半からの城郭談話会による『倭城の研究』に続きます。

1979年の『倭城址Ⅰ』から、1999年と2011年の倭城研究シンポジウムまでの道程は縄張り研究ベースの城郭研究の歩みと重なるもの。
シンポでも問いかけられたように、本当に研究は深化しているのかと常に問いかけながら精進しないとと思います。

2011年12月13日 (火)

シンポとロールプレイ

今回の倭城研究シンポジウム、来られた方はおわかりかと思いますが、討論は通常のシンポジウムとは違い白熱するスタイルでやりました。

普通にシンポジウムならば、テーマに対して各パネラーの意見を出し合って→それぞれの見解がありますね。で留めます。
でも、たまにテーマがその時にホットな議論になっているものならば、ハプニング的に論者が応酬する場外乱闘が起こることがあります。
しかし、それはホントに偶然です。

今回の倭城研究シンポジウムでは、司会(と言うか、コーディネートされた)Kさんの持論をベースに構築されています。
即ち、これまでそれぞれ持っている論点をレジュメ資料集に開陳した上で、
今日の倭城研究シンポで設定したテーマ(本邦・朝鮮国にとって倭城とは)に応じて、司会者からどんどん厳しい質問が飛び、
さらに議論となる要点では関与する複数のパネラーにどう考えるのか、どう認識しているのかを質すことで議論を闘わせる。
そうしたガチンコなスタイルで臨みました。

それは城館史料学会の準備打合せの段階から共有されたことで、当日も事前にこういう質問するからと司会から前振りがあってのこと。
なので、話すパネラーも準備しておかないといけないし、それ以上にコーディネーターが各論を咀嚼して次々とテーマに応じて料理するという、
かなりハードなものになりました。
そうしたシンポが3時間。聴かれた方にはその勢いに圧倒された感想も拝聴することができ、目的通りの結果だったのかなと思っています。

コーディネーターの構成もさることながら、パネラーも議論の幅を広げるために「あえてこの役で責める」というロールプレイの質が問われます。
今回、ボクは「武断派」的な立場から軍事的視点で朝鮮出兵を評価、読み解くロールプレイ。
これに対して、隣のTさんは逆の立場から「豊臣政権が抑圧してきたもの」を前面に出す従来の解釈ベースから斬り込むロールプレイ。
といった案配。
ボクはまだまだ未熟で熱くなったりしながら論点を逃すまじと何とか食らいつくようにこなしましたが、
一方のTさんはボクと司会のKさん相手に見事なロールプレイをこなされていて、その頭の回転の良さにスゴイなあと脱帽。
私のような何とか土俵に立つような未熟な論者に胸を貸す的な感じで、それを受けるのにかなりしんどかったですがとても勉強になりました。

もちろん議論は生もの。予定した内容の2/3もできなかったようでしたが、とても充実したものになりました。
一見すると殺伐感が強い印象を持たれたかも知れませんが、
白熱した議論は、ロールプレイを踏まえた上で、相手の持論と論旨の軌道の読みと臨機応変な切り返しの連続から成り立つもの。
しゃんしゃんシンポが多い昨今、城郭研究からしっかりした議論が組めた倭城研究シンポジウムは有意義なものでした。

最終日を終えて帰宅して風呂に入った時に思わず大声でうなるくらいに気を張って臨んでいた倭城研究シンポジウム。
昨夏の姫路市でのセミナーと併せて、Tさんの学恩には重ね重ね感謝する次第です。

2011年12月12日 (月)

倭城研究シンポジウム、無事に終了。

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今回のポスター&資料集の表紙デザインは、九州大学建築学科の院生H氏が担当してくれました。

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10日・11日と連日200名余りの方々にご来場いただきました。

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会場は、九州大学旧工学部本館講堂。旧帝大のなごりを残す名建築での日韓の研究者を交えた白熱の研究シンポ。

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報告者15名+むちゃぶりコーディネーターによる総勢16名による3時間の討議。1人居ないのは撮影してた私。

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同じ旧工学部本館内の総合研究博物館では、九州大学記録資料館所蔵の倭城址調査図展覧会。みての通りの盛況でした。

レジュメ資料集は倭城址調査図・縄張り図を収録して250頁。在庫残りは3,000円+αで事務局などで頒布する予定とのことです。
しばらくお待ち下さい。

私は前日の準備と倭城址図の展示に参加し、2日目の2本目で報告、シンポジウムも3時間勤めました。
久々に学芸仕事をこなし、倭城併行期の国内城郭を中心に豊臣政権のあり方や朝鮮出兵について検証する報告を行いました。
特にシンポのやりとりも含めてTさんからはいろいろと勉強させていただきました。ありがとうございます!
この成果を活かして、引き続き城郭研究の一翼を担えるよう、城館史料学への長い道のりを精進していきたいと思います。
ちなみに、報告の前振りは、天草に続いて「固定資産税ネタ」だったのは言うまでもない。(^^

もちろん自分を写したものは手元にないので、私を写した写真がありましたら、どなたかいただければ幸いです。

2011年12月 1日 (木)

しわす。

博物館学の解説には、こうしたことはあってはならないとされる「扱い」を受けたのは去年の4月ではありましたが、
これを機会に、ハコモノの閉じた世界から抜け出して、城郭跡の調査を主体とする歴史の研究生活をベースとした生活も2年目。
中・近世の時代から続いているかのような伝統的な地域社会とコミュニティーの片隅に異邦人として身を置くという得難い経験の中で、
ハコモノの中では身に付ける機会の乏しい経験を積み上げる日々。

去年は、ネイティブでさまざまな年齢層の人たちが営むコミュニティをみながら、歴史研究で対象となる人の営みを考えるヒントを得たり、
別府大学の非常勤講師で集中講義を行うために、1979年を画期とする縄張り研究ベースの城郭研究のおさらい。
そして、中国地方に赴き織豊系城郭の城郭遺跡を調査する機会を得て、在地系城郭と織豊系城郭の両方を把握できるよう勤めました。

今年は、久方ぶりに家屋の調査を通して、建築学科時代におなざりにしていた「今日の建物」を読みとる訓練をする機会を得ました。
おかげで、城郭跡だけでなく建物を把握し調査する目線を鍛えることで、「歴史学ベースの建築史」へ回帰するきっかけもできました。
その間に、文献史学や考古学などが絡む学際的研究であると共に、各地で文化財整備が活発化する城郭遺跡の議論の中で、
自分の立ち位置を明確に打ち出すことで議論の枠組みを意識的に広げて、城郭研究の議論を活発化させるロールプレイを意識してきました。

もちろん、ロールプレイをするからには、広げた風呂敷に負けぬよう自らの中身を充填する作業もやらねばなりません。
12月は大きな仕事である倭城研究シンポジウムがあります。
城郭跡と建築遺構を軸に遺跡を読み解く歴史研究をしっかり実践できるよう、
最終目標を目指し、万全を尽くして臨みたいと思います。

2011年11月28日 (月)

「明るい大阪 いつまでも 輝く大阪 みんなの誇り」

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2011年11月17日 (木)

『富岡城跡物語』

天草市での合同研究会という好機を逃すまじと、12日は朝から猛ダッシュで天草の苓北町まで行こうとドライブ。
しかしながら途中で三角で道草したのが運の尽き。
天草諸島の広さに負けてしまい、天草市五和町辺りで対岸にみえる口之津に感動したりして……

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苓北町の富岡城跡についたときは、天草市有明町集合13時に対して、11時半という体たらくorz

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で、肝心の富岡城跡ですが、既に知っていたとは言え、山上にはビジターセンターが入った復元建物があり、
破城の跡が残されていた石垣は発掘調査が成されたのはよいとしても、すっかり復元を加えて積み直されたため
どこからどこまで現況遺構だったのかよくわからない状態になっていました。
幸い、縄張りは把握できるので主郭の外桝形虎口や第2郭の内桝形虎口をみて防禦意識の高さと技巧性に感慨深く……
ひたる余裕もなく、何か報告書や書籍はないか!とビジターセンターまで登ったものの関係図書はまるでありませんでした。
そして、引き返す時に最後の希望と苓北町郷土資料館に寄ってみましたが……土曜日なのに開いてないorz
ということで書籍を入手できずじまいで苓北町を後にした次第。。。

しかしながら、その日の懇親会で天草市教委のNさんから『富岡城跡物語』なら苓北町で頒布してますよと情報をいただいたおかげで、



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苓北町に注文して送ってもらいました。1575円+送料です♪( ´θ`)ノ
郵振付きで電話依頼した翌日に届きました。ありがとうございました。
前半は対談形式で富岡城跡の歴史が紹介される構成。後半は発掘調査と整備の記録概要があって重宝します。
報告書がありますがなかなか入手できないので、手身近に押える事ができる書籍となっています。

在庫はまだあるようなので、気になる方は注文してみて下さい。

2011年11月16日 (水)

肥後大浦城を観ました。

中世の城郭と近世の城郭を見分けるのは、普通に城郭遺跡に関わる方々ならそれ程難しくないのですが、
高石垣に沿って掘られた大空堀を南北朝時代のものと言うユニークな見解をためらいもなく書くような環境に住んで、
苦笑いする今日この頃。

そんな中、今回、真摯に地域の城館や歴史的景観を整備される天草市さんの案内で興味深く拝見したのは、天草市有明町の大浦城跡です。
天草での合同研究会の初日、見学ツアーの最初の見学コース。
「並河太左衛門覚書」に、関ケ原戦後に天草郡を所領とした唐津城主寺澤広高が置いた6つの支城が紹介されています。
富岡・栖本・斉津(才津)・久玉・河内浦・軍ヶ浦です。その内、「軍ヶ浦は大浦トモ言」とあり、
大浦城は軍ヶ浦城であると考えられています。

有明海に面した大浦集落に隣接した小山に大浦城跡はあります。
小山の背後を堀切り城域としています。頂部には40m四方の方形区画な主郭があり、周囲に石垣列が残っています。
石垣は見ての通り、矢穴痕のある比較的形の整った石を積んで2〜3m高さの石垣列です。
石垣からも寺澤氏段階に改修された支城であることがわかります。

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海岸から切り出した石なども見ることができます。布目崩しな積み方です。

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城域をコンパクトに絞り込み、石垣列で防禦する。南西隅にスロープ状の平入り虎口を設けるシンプルな縄張り。
支城主に必要以上に権限を与えないものの、後詰めが来るまで抗戦する機能は備えて統治を任せる「出張所」です。

もっとも、この地域は石材を積極的に使用してきた歴史的背景があり、城跡は集落にも近いことから、
後世の作為の可能性も無視できませんし、畑作をしていることから一応注意してみる必要があります。

ですので、一応念のため、縄張りと石垣が違和感ないか、積み方に違和感ないか、慎重にみて歩きました。
縄張りからみても石垣からみても、やっぱり寺澤時代の遺構でした。

上記のように、寺澤氏は天草郡に6つの支城を築いています。
富岡城を除くと小規模なものが多いようにみえますが、かなりの密度で築いた点に寺澤氏の天草支配に対する強い意志が見て取れます。
(この辺りのことは木島孝之氏の『城郭の縄張り構造と大名権力』に記されていますので一読ください。)
元和の城割令で富岡城を除いてそれぞれ統治拠点は下城したと思われますが、島原の乱では天草から一揆反乱を起こされてしまいます。
なるほど、この二島に6つの支城を浦々に築いて統治しようとした寺澤氏の過剰なまでの意識もさもありなんと言えますね。
そうした寺澤氏の対応から、狭い地域に海洋領主が横並びに割拠し隠然たる勢力を持った天草二島の潜在的な力を知ることができます。

戦国期から近世初頭の城郭について見分ける中で、大浦城は城郭跡からその地域の中・近世移行期の様相の一端がわかる好例と言えそうです。

2011年11月15日 (火)

天草市倉岳町棚底の防風石垣とこくりを見ました。

合同研究会の初日、12日は天草市教委の方々にお世話になり遺跡の見学会。
寺澤氏の支城、軍ヶ浦城とされる大浦城(天草市有明町)と国指定史跡となった戦国期城郭の棚底城を案内していただきましたが、
その途中で棚底城が近接する天草市倉岳町棚底の集落にとてもめずらしい景観をみせていただきました。

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みせていただいた時にはお口あんぐりでした。
まるで城郭の石垣のようです。なかにグリで充填するものもありますが、基本的には石を積み上げて分厚い壁面をこしらえる組積造です。
山からの吹き下ろしを防ぐために、周囲に石を積み上げた防風石垣が集落のあちらこちらに連なるとても異様?な風景。
扇状地故に、山地から土石流などで多くの石が混じっており田畑からいくらでも掘り返せるとのこと。
本来なら土塀や防風林で処理するところをそれを積み上げてとても技巧的な石塁を築いたそうです。
なかなかこういった風景は他にはありません。背の低い石垣が続く風景は離島などにありますが、ここまで積み上げたものとなると……

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そして、もうひとつ。集落には、畑の下を通る石積みの地下水路「こくり」があります。
水路補修に併せて発掘調査している現場をみせていただきました。
扇状地の急傾斜に効率良く流す農業用水の補助路として機能したそうです。上部は石のフタをして土で埋め戻します。
これもなかなか興味深い農業遺産(現役ですが)でした。

これらの集落景観を含めて、天草市では歴史的景観の指定を目指して調査・整備・保全策を進めているそうです。
近くに棚底城や寺院遺跡もあり、なかなかの歴史的景観。一見の価値有りです。
但し、皆さんが生活している集落でもありますので、見学の際は周囲に配慮してくださいませ。

2011年11月14日 (月)

南北九州城郭研の合同研究会@天草市

12・13日は、天草市で開催された南九州城郭談話会&北部九州中近世城郭研究会の合同研究会に参加してきました。
今回は天草市教委がホスト役となって天草の城郭など地域の築城技術について考えると言うテーマでした。

初日は天草上島の有明町大浦に集合して寺澤氏の支城軍ヶ浦城と考えられる大浦城跡を見学。
続いて山を越えて倉岳町棚底の棚底城&集落の防風石垣を見学しました。

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大浦城跡は天草諸島の悉皆調査から今後整備を進めて行くことを念頭にした寺澤時代の支城跡とされる遺跡。

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棚底城跡は集落の防風石垣とあわせて国指定史跡・歴史的景観で整備している最中とのこと。

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この2つの遺跡を通して、現在、天草市が積極的に調査整備を進めている現場を見させていただきました。
そして、初日は見学会の後で懇親会で談論風発。九州各地の皆さんといろいろと情報交換ができました。
聴けば天草市の文化財担当職員は少ない人数でやられているとのこと(来年は1名増員予定とか)。
文化財整備を実務的に進めるだけでなく、積極的な調査研究から各地の研究者を招き進めていく姿勢には感服する次第です。

そして、2日目は天草市民センターで合同研究会。

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私は大友氏の築城技術について、戦国期から豊臣期までのスパンで報告しました。
大友氏をはじめ大きな大名権力では独自に縄張り技術を制約する規範がないこと、むしろ地域毎に縄張り技術の選択などで
共有する文化圏的な分布が確認されるといった従来からの自分の研究を報告しました。
ポイントとして、その地域の城郭遺跡を解釈するためにやみくもに「独自性探し」をして拙速に遺跡評価の回答を導くのではなく、
全国的な築城技術の変遷を念頭に置いて、周囲の事例から広域的な縄張り技術の受容形態と分布傾向を押えることが肝要であり、
それをもとに、全国の動向と地域の動向の対比からその地域でのおおまかな特徴と着眼点を抽出する作業が欠かせない。
一見、迂遠な作業に映るけれども、そうした作業を行い城郭遺構から地域性を読み解く準備を整えた上で、
地域の城館の分布傾向を照らし合わせて得られた見地から、地域の独自性が読み解くことが大事である点を申しました。
また、豊臣政権など統一政権との関わりでは、中央-地域の二項対立を設定するのではなく、統一政権の示す方向性に対して、
地域においてどのような受容形態があったのかを読み解くことから逆にその地域の特色を浮かび上がらせる視点が重要とも申しました。
他の報告では、地元天草市教委の中山圭さんによる調査成果をベースとした天草における城館の変遷についての報告と、
大村市教委の大野安生さんによる肥前大村氏の城郭についての報告は興味深く拝聴させていただきました。

当日の報告は議論を盛り上げようと少し悪役?っぽい役回りをして「何とも挑発的な論調」と思われたかも知れません。
でも、シンポでは対立軸をこしらえることが議論を盛り上げることになりますので、ご寛容いただければ幸いです。
今回ははじめての天草でしたが、また機会があればもう少し掘り下げて天草地方を歩いて丁寧なお話ができればと思います。
天草は天草パールラインをはじめ、本当に風光明媚であり、また多くの資料・遺跡に恵まれた地域性を知ることができ、
大変収穫の多い旅でした。
天草市・上天草市・苓北町のある苓州天草にまたお伺いしたいと思います!

2011年11月 8日 (火)

那智山と勝浦温泉に行ってきました。

南紀旅行では、熊野本宮大社に続いて熊野那智大社・青巌渡寺も訪れました。
本当なら新宮市の熊野速玉大社も訪れて「熊野三山」ですが、自分で組んでいる旅行じゃないので仕方ない(^^

道中の熊野川沿いと那智川沿いは9月の12号台風水害で大きな被害を受けていました。
写真で示したらわかりやすいのですが、被災者への配慮で撮影していませんのであしからず。
熊野川沿いにあった道の駅や瀞峡めぐりの遊覧船乗り場は跡形もなく流されていました。
後には鉄骨だけが残るという惨状です。
骨組みだけのこる姿は南三陸町が注目を集めましたが、熊野川でも同じく自然の猛威と爪痕がまざまざと見せつけられました。
前者は象徴的な絵としていろいろな方に注目されていますが、和歌山県は報道もなかなか来てくれないのか誰も取上げない。
中山間の過疎地で歴史的遺産に恵まれた地であると共にかつて大水害の被災を受けた竹田市に住む者として痛みを共感し、
この世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の南紀熊野の地を訪れることで復興へ寄与できれば幸いです。
瀞峡で著名な北山川沿いは土砂ダムなどで立入禁止となっていますが、瀞峡めぐりも一刻も早い復旧を祈念するものです。

そして、那智山へ通じる那智勝浦町の那智川流域もご存知のように大変な被害を受けました。
その被災地は那智山への観光ルートになっていますが、観光の復興を進めるためにも道路復旧を急いだそうです。
そうした地元の方々の思いを感じながら、那智山へ。

熊野那智大社・青巌渡寺と大門坂、そして那智瀧を訪れました。
根津美術館所蔵の名画「那智滝図」で著名な那智滝のほんものをみるのはアート好きには至福の瞬間。
被災して岩がゴロゴロしていましたが、荒々しい自然の猛威と神々しさを伝える瀧の荘厳さと畏怖感、今回の災害についていろいろ沈思。

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そして、一部土砂が敷地内に流れ込んだ熊野那智大社を拝んで、青巌渡寺へ。

青巌渡寺はとても密教的な雰囲気を漂わせる寺院でした。
補陀落浄土へ本堂の如意輪観音を拝みながら、このたびお亡くなりになられた被災者のご冥福を祈りました。

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夕方には勝浦温泉に投宿。
ほんの近くなのに、良質の温泉が連なる温泉街はほとんど被害もありませんでした。
それでも災害で客足は大幅に減少しているとのこと。紀勢本線は勝浦温泉駅までは通っているので、
ぜひとも南紀牟婁の名湯に足を運んでいただきたいものです。

で、勝浦温泉は老舗の洞窟温泉「忘帰洞」で有名なホテル浦島に泊まりました。なかなかいいお風呂です。

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Foxkeh! フォクすけ!



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