あれこれ告知板。

日々、城郭跡の史料的活用を実践し、真の学際的研究たらんとする城館史料学の長い道のり……。

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☆豊前長野城 主郭から小倉津を一望できる立地にあり、無数の畝状空堀群が刻まれた山城。豊臣軍と対峙した秋月方高橋元種の軍事拠点。
※あれこれ・ラボは、城郭跡などの痕跡から地域を読み解く「屋根のないあおぞら博物館」目指して日々奮闘中。

■あれこれ・ラボ (九州版)へようこそ!■
城館史料学からいろんな領域へ、『痕跡から読み解く研究日誌』あれこれ・ラボへようこそ!
中身や管理人については、こちらをごらん下さい。

2012年4月、これまで13年活動拠点にしていた竹田市から北九州市は旧筑前国遠賀郡に拠点を移しました。
稼業では屋根のないあおぞらミュージアムを常に考え、本業では城郭談話会会員として地の利を活かして西国の城館調査等を進めていきます。

「城館史料学と縄張り屋家業」拙稿はコチラ、リストはコチラ)で城館史料学と城郭跡からの文化財学構築を目指し、日々、精進しています。
☆注意事項仕事場には、私宛の郵便物は送らぬようにご注意下さい。 
城館史料学ベースの日々へのあれこれはこのウェブログか、名刺をお渡しした方は自宅(お電話・メールでお問合せ下さい)まで。


■これまでのトピック■
☆平成22年度後期、別府大学(非常勤)で『城館史料学概論』(集中講義形式)出講しました。
90分×3回の12回の集中講義で縄張り研究ベースの城郭研究「城館史料学」を専門的に掘り下げました。  
倭城研究シンポジウムⅡ 倭城〜本邦・朝鮮国にとっての倭城とは〜 で報告しました。 
12月10日(土曜日)・11日(日曜日) 場所:九州大学旧工学部本館 講堂@箱崎キャンパス


■書籍のご案内■

混浴温泉世界—場所とアートの魔術性—
ボクが直接関わっていませんが2009年のコンヨクを知る決定版!カバーページのたくさんの人の集合写真に交じってなぜか居たりします(微笑)。
福岡県の城郭—戦国城郭を行く—福岡県の城郭刊行会編、銀山書房
福岡県の中世城郭についての最新成果が納められた一冊。縄張り図も多数収録しています。福岡県内の城郭のガイドブックとしてどうぞ。
☆『日本歴史752号(2011年1月号)』

吉川弘文館『日本歴史』の新年特集に城館史料学からみた城郭跡整備の問題点について寄稿しています。よろしければご高覧下さい(._.)オジギ
『歴史読本2011年5月号』新人物往来社

特集「日本全国、名城の条件」にて、杉山城、滝山城、本佐倉城と姫路城、赤穂城、五稜郭を執筆しました。
アクロス福岡文化誌7『福岡県の名城』海鳥社

福岡県の戦国期城郭など幾つかの事例について執筆しました。福岡県は古代から近世まで様々な城郭跡が残っていることがわかる一冊です。

2014年9月 9日 (火)

八幡における村野藤吾の建築作品について歴史的価値を考える

下記の通り、シンポジウムを開催します。 歴史意匠委員会では、学術団体として、それらの議論の前提として、まず「八幡における村野藤吾の建築作品」そのものの近現代史、及び近現代建築史からみた学術的位置づけを明らかにしておこうと考え、このシンポジウムを開催するに至りました。 どの立場からも、まずは「八幡における村野藤吾の建築作品」の学術的評価を知ってもらいたい。そのうえで如何なる判断を下すのも市民の自由。その代わりきちんと「後世への責任」も担っていただこうという趣旨で開催するものです。 それぞれの立場・主義主張を超えて皆さんのご参加をお待ちしております。 ぜひ、ご参集下さい。

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2014年6月 2日 (月)

拙稿のお知らせ

別府大学史学研究会の『史学論叢』第44号に投稿した拙稿が掲載されましたのでお知らせします。
昨年夏の全国城郭研究者セミナーでの議論について、いただいたご反論のうち、文献史学側の分を再反論したものです。

どうぞ、こちらからダウンロードしてご笑覧ください。

「「椙山之陣以来」にある「椙山之陣」は何を指すのか?―竹井英文氏「その後の「杉山城問題」」における批判に応える―」
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/listitem.php?index_id=7476

2013年8月30日 (金)

田向城跡の発掘成果に接して。

千葉県山武郡にあった田向城については、先のセミナーにて私と別に報告があった事例。
シンポの場で、歴史考古学の側から、瀬戸美濃大窯の陶器と曲輪の盛土の中にある鉄砲玉が共伴関係にあったと紹介された事例です。
今回の報告で、私の方では「杉山城問題」の動かぬ根拠とされた、瀬戸美濃大窯編年案(F案)には問題があり再点検が必要と申しました。
その大窯の瀬戸美濃が層位的に鉄砲玉と共伴していた発掘調査が田向城跡です。
杉山城では表土の下にあるとされた鉄砲玉が、曲輪の盛り土の中から共伴してきて出てきた事例。
九州で報告書があるかと思い、探してみると身近なところにありました(^^
おかげで無事に確認することが出来ました。
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002407530-00
当日揚げた諸事例に加えて、田向城跡などの事例も出てきたように
、見直しを進めることで証拠固めが進むと思います。
これにより、縄張り研究の有効性に疑問符を投げかける「
杉山城問題」の根拠となった大窯編年案が
城郭跡の年代比定の尺度足りえない(編年そのものは否定していない)ことは、歴史考古学的にみても間違いないところです。
よって、現存する杉山城跡は、歴史考古学的に遺物からみても、そして従来通りに縄張り分析からみても、
少なくとも永禄期を下る(たぶんに天正期と思いますが)、戦国前期の遺構でないのは間違いのないところでしょう。


「縄張・考古・文献」のテーマを語るには、まず、「杉山城問題」の清算からというのは研究史的に自明のことでした。

この問題の構造を丁寧にみることで、他分野の問題提起についてはむやみやたらに真摯に鵜呑みにせず、まずは一度裏をとりましょう、
という城郭研究者への教訓を導くことができました。
今後は、新たな年代観を手掛かりに、関東の戦国・織豊期の城郭についても進化論型型式学に視点で分析を進めていきたいと思います。

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2013年8月 6日 (火)

駒沢之陣を終えて。

今回の全国城郭研究者セミナーでは、2日目の8/4に「縄張・考古・文献―城郭研究の明日―」というテーマに沿って、
進化論的型式学に基づく縄張り分析を柱とする城郭研究を進める立場から報告しました。
1980年代以後、城郭遺跡の調査と史料的活用から当該機社会の様相を研究することを目指した縄張り研究では、
文献史学や歴史考古学等の隣接分野の研究に対して如何に向き合うかが問われます。

その事例として、2005年の「比企の城」シンポ以来、縄張り研究の年代観批判で
喧伝された「杉山城問題」を取り上げ、
これに関わった文献史学側、歴史考古学側、そして縄張り研究側のコメントと彼らが論拠とした年代観の根拠について
分析を行いました。その結果、この問題が問題ですらないこと、縄張り研究者の側では不用意に議論に参加したことを戒め、
このような年代観や城郭跡に関する視点で提示された論拠については、そのまま鵜呑みにせず、可能な限り、裏取りをした上で
議論しなくてはいけないことを指摘しました。

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今回のものは、以前から再三城郭研究者の間では指摘されていたこと。それを私が代表するような形で詳細に整理して報告したものです。
今までの流れを踏まえて、今回は杉山城跡の縄張り図も用いませんでした。もちろん、空間論や戦場論も安易に用いず、
淡々と文献史学と歴史考古学の側の手法で、丹念にこれまで提示されてきた論拠の再検証をしました。
そして、論拠には問題が多く、指摘された問題そのものが問題ですらなく、むしろ、問題にしたことが問題であったことを示しました。

さらに、シンポジウムの場を通して、「比企の城」シンポで掲げられた問題提起に関しては、
議論の途上にあった国産陶磁器の一編年案をひとり歩きさせて城郭遺跡の年代観の議論に
安直・無批判に用いられた結果にしか過ぎないこと、それ故、一連の批判は根拠の伴わないものであり、当初からそもそも問題ですらなかった、
このことを縄張り研究、歴史考古学の側の議論で確認されたことで、この「問題」は事実上終止符が打たれたと思います。

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2013年7月16日 (火)

城井谷の豊前宇都宮氏シンポに行ってきました。

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この頃、育児で更新作業はスルーしています。
世の研究者男子はまっとうに育児しとらんやろw。と思う今日この頃です(^^

それはさておき、14日は京築路を南下して築上町の「豊前宇都宮氏と豊臣政権」歴史シンポジウムに参加してきました。
詳細は→
「豊前宇都宮氏と豊臣政権」シンポチラシ表

これまで、竹田市時代には宇佐・下毛郡の国衆は大分県関連史料の枠内である程度押えてきました。
そして、コチラに来てからは北九州市周辺や豊前国北部の国衆は押えたものの、京都郡以南の仲津・築城・上毛郡は未踏の状態でした。
ここ数年、築上町(旧築城町・椎田町)での宇都宮(城井)氏関係調査が進んでいるのは報告書などで目を通していたので、
今回、ようやく現地を訪れて最近の研究成果を伺うことができました。
まずは、船迫窯跡公園の史料展を観てから、会場のコマーレへ。
多くの聴衆が参集し、大分県側からも関係者が来られてましたので久々にご挨拶できたりしました。
そして、パネラーの諸先生方による分厚いレジュメも無事に手に入れることが出来ました。

地元からの豊前宇都宮氏の報告はもちろんのこと、大河ドラマの時代考証をされている小和田哲男氏の基調講演をはじめ、
市村高男さんの下野宇都宮氏
土居聡朋さんの伊予宇都宮氏など多角的に報告は構成されており、さまざまな成果に触れることが出来ました。

京築地域は戦国・織豊期の史料が乏しいところですが、近年考古学の成果をもとに文字史料からのアプローチと絡めて全体像が浮かびつつあります。
そうした成果に学びながら、豊前国衆一揆を起こした豊前中南部の国衆たちの様相や関ケ原以前の黒田氏ら豊臣政権側の動向などについて
文字史料と城跡・考古資料・歴史地理関係資料などを総合的に扱いながら解明することが期待できます。
そうした手応えが感じられる、とても有益なシンポジウムでした。
これを機会にしっかり京築路を極めなければと思いを新たにしました。

2013年6月23日 (日)

駒沢之陣以来

8月3日・4日の第30回全国城郭研究者セミナー「縄張・考古・文献―城郭研究の明日―」
http://www.komazawa-u.ac.jp/~kazov/chujoken/semi2013/
にて、2日目に報告いたします。
タイトルは、「縄張り研究の独自性と今後の課題 1980年代以降の新しい城郭研究が目指すもの」です。
5月〜6月は乳飲み子を抱えての限られた時間の中、ウェブログの更新もさておきで注力していました。

城郭研究を志す皆さんと共に、1979年村田修三氏の報告以来、培われてきた縄張り研究が目指してきた
「進化論的型式学に基づく城郭跡の解釈」と「城郭跡の史料的活用」をあらためて再確認できればと思います。
そして、良き隣人として、隣接諸分野に精通し良き緊張関係を保ちつつ研究を行う城郭研究者として切磋琢磨し、
中世戦国・織豊期研究を進める、真の学際的研究を目指しましょう(^^

2013年5月27日 (月)

高祖城に登りました。

20日に高祖城に登ってきました。
古代怡土城の一角を原田氏が居城とした高祖城。
もちろん、周囲の戦国期城郭の事例を踏まえるならば、最終段階の原田氏が整備した縄張り技術です。
上の城主郭の土塁や私の縄張り図では未調査な南側の土塁ラインなどが稜線上の曲輪群をつなぐように配されています。
防塁型ラインにより上の城、下の城の曲輪をつないで一体化させるような縄張りとなっています。
曲輪の切岸には石垣列もみることができます。瓦も布目叩きを伴うコビキA痕を持つものがみられます。
また、上の城主郭や南側曲輪群には、曲輪の側面に平入り虎口を配したものが確認できます。
この地域の戦国期在地系縄張り技術の到達点がわかる好例です。
登山道に急傾斜が多く登るのが大変ですが、10数年前の調査で取り残した部分を年内に仕上げようと思っています。

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↑上の城主郭部の大土塁

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↑上の城主郭部の虎口プラン。一見桝形虎口にみえますが、側面に開いた平入り虎口です。

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↑上の城から南側に続く尾根筋にある土塁ライン。最終期の軍事動員がうかがえる遺構です。

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2013年5月 1日 (水)

「縄張り研究」を踏まえて、突き詰める。

先だって、『建築史学』59号に掲載された木島論文につい紹介しました。
http://nakatake05.blogcoara.jp/nakanishiyalab/2013/03/post-7467.html
長らく、九州に
て木島さんと議論(うだ話とも)を通して学んできた内容がようやく論文化されました。
また、『海路』11号にて「
九州にとって「織豊」とは 織豊系城郭の様相と近世大名権力」文章化され
こちらは木島さんが長年
進めてこられた研究のダイジェスト版のようになっています。

長年の
議論の中で、いずれ隣接分野(文献史学・歴史考古学)から一部の研究者縄張り研究の方法論に攻勢をかけてくるだろう、
その時にどういった姿勢で臨むかが問われるといった認識を共有し、うだ話を重ねてきました
その中では、非文学部ベースの工学部系研究者
目線を以て、物証である遺跡の史料的活用を突き詰める
して、村田修三氏の提唱以来の城郭研究の研究史(当然、その研究史は特定の地域に偏ったものではなく、
全体を見据えたもので
なければならないのは言うまでもなく)を踏まえて、
「進化論的形式学に基づく年代観」
研究手法の柱として突き詰める。
の上で、そうした「問題」が起きた際には、彼らの拠る研究手法そのもの斬り込むことで問題点あぶり出し
城郭跡の史料的活用から既往の学際的研究の再検証を如何に問うか、この点を常に議論してきました。

今日、
そうした「問題」が提起された中で、上記論文を通してこれまでの議論がようやく文章化されたことは実に感慨深いことです。
別件、これまで一連の議論について批判?も頂戴していましたが、なかなかご回答しなかったのはそうした理由あったからです。
私のように目先の議論で手一杯な若輩と異なり、深謀遠慮を以て研究を進められてきた先達から議論やうだ話の中で学んた視点を
勝手に先に文章化
して論じるわけにはいかないものです。
しかしながら、ようやく解禁みたいなものですので、
少しでも「宿題返し」できるよう、来たるべき「戦線」に備えたいと考えています

ということで、
ウェブログをみればわかりますが、この機会にいろいろ下調べもしてきました。
また、
ちょうどいいタイミングで、『発掘調査のてびき』も既刊+新刊で揃います。
遺跡の発掘調査
の視点と年代比定について、文字史料による歴史学、建築史学との関係がどうなっているかを確認できるいい書籍です
文字
史料の成果に過度に依存せず、進化論的形式学に基づいた遺跡分析から得られた成果をもとに、文字史料の成果を勘案する
そういった自律した「遺跡の歴史学」
を学ぶためにも、今の環境を活かして突き詰めたいと思います。

2013年4月30日 (火)

南海ホークス展に行きました。

4月最後に、堺市博物館の「南海ホークス展」を観に行きました。
月からしばらく育児でゆっくりするので、節目の意味もあって、
自分
小さい時に応援してきた原点でもある「南海ホークス」を扱った地元近くの展覧会で〆ることにしました。
併せて、かつての関西私鉄文化を知る
展覧会でもありますので、昭和文化史を知るためにも勉強です
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常設展示の一角を企画展示とした南海ホークス展。
関西大学の協力によ
ホークス関係者への長年の資料調査の成果を反映した出品と共に
かつては中百舌鳥球場もあったゆかりのでもある堺市内の関係者からの出品もあり、
多くの資料が展示されていました。
自分が持っている
グッズがケース内にあるのも面白かったです。
興味深かったのは大阪球場の外観デザインが坂倉準三
建築事務所だったこと。
建築家が関与した球場と言えば、西武ライオンズ球場がありますが、
戦後間もなく、当時の現代建築をリードした坂倉準三氏が関与していたことに感慨深いものを感じました。
そして、往時の南海電鉄の
も再認識できたものです。
阪神甲子園球場などが郊外住宅地の
付加価値付け役割を担ったことに対して、
大都市大阪
におけるターミナルのシンボルに球場をもってきた「都市的センス」
阪神
・阪急・近鉄などとは違う、大阪の「南海」の格の違いをファンとしては一方的に感じる部分ではあります。

今回の展示では、ホークスの70年代を支えた野村克也氏の関係資料にも言及した部分がはじめてあったのも感慨深いもの。
これまで等閑視されてきた、黄金期の捕手であり、プレイングマネージャーとして70年代のホークスを担った
野村克也氏の関係資料を含む客観的な
視点で「南海ホークス関係資料」がまとまることを期待したいです。

併せて、近隣自治体でも、同時代の関西私鉄文化の一コマ、近鉄バファローズや阪急ブレーブス、
そして、
パ・リーグ創設のきっかけとなった大毎オリオンズの展示が実現されることも期待したいです。

2013年4月24日 (水)

京都郡の等覚寺城に登りました。

馬ヶ嶽城を踏査した後で、京都平野を北上、苅田町山口にある等覚寺城を観てきました。
山口から登り、本谷・等覚寺・北谷という地区の一角にある白山多賀神社の境内が城域です。
場所は平尾台
から伸びる山塊部分の南東中腹にあたります。
かなり比高差の高いところに元々修験の
僧坊が並んでいた集落と白山多賀神社(修行場)があります。

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白山多賀神社は春に行われる「等覚寺の松会の行事で有名な修験の場です。国指定の重要無形文化財になっています。
しかし、そのぐるりを畝状空堀群+横堀で囲んだ戦国期城郭だと言うことは案外知られていません
(ノ_・。)

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写真のように、谷部分を除く、北側と南東側の緩斜面には何十本もの畝状空堀群が取り囲みます。
ただ、畝状空堀群が囲むのではなく、途中に帯曲輪状の横堀をかませて2〜3段連なっている点が特徴です。

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写真ではわかりづらいですが、横堀が曲輪の周囲を取り囲みます。
現在、曲輪は大半が白山多賀神社の境内として削平されていますが、
周囲は作業道で破壊された部分を除くと城郭遺構が良好に残っています。

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から尾根伝いに続く主要尾根を掘り切る堀切+竪堀です。
多くの土木量が費やされたことがわかります。
等覚寺城は永禄期には長野助盛が居城としていたようです。
京都郡は天正後期まで長野氏の勢力圏ですが、
北側の貫山・平尾台周辺はその後、高橋元種に移った可能性もあります。
いずれにしても、縄張りをみると、横堀+畝状空堀群を南段も斜面に連ねるやり方は、
益富城、戸代山城、長野城など秋月氏系勢力(秋月氏・一万田系高橋氏・長野氏ら)の持城にみられます。
おそらく豊臣秀吉の九州征伐に際して、門司→苅田松山へ周防灘からの上陸を想定して、
最前線を担った高橋元種が前線と詰城の松山城との中間の押えとして整備したものと思われます。

等覚寺城は長野城と同じく天正期の史料が乏しい山城ですが、
修験の場を城塞化した様相を含めて、北部九州の戦国末期の様相を伝える貴重な資料になります。
「等覚寺の松会」と共に「等覚寺城」も文化財としての評価が知られることを期待したいところです。

2013年4月23日 (火)

京都郡の馬ヶ嶽城に登りました。

豊前京都郡、現在の行橋市にあたる馬ヶ嶽城に登ってきました。
近くの御所
ヶ谷神籠石が有名ですが、こちらの天正年間に長野氏の居城だった馬ヶ嶽城もなかなかのものです。
九州出兵の際に九州上陸した秀吉
の御座所になったところであり、その後黒田氏が入部した山城でもあります。
但し、
山頂の主郭部・第二郭部分の曲輪群は共に織豊系縄張り技術による積極的な改修は管見の限りみられませんでした。
主郭部・第二郭部分は地形に沿った連郭式で、主郭部には大堀切がありました。

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馬ヶ嶽城で特徴的な縄張りは、第二郭から東側の主要尾根筋に伸びる長大な土塁ラインです。
それは麓まで
伸びるかなりの長さになります。主要尾根からの侵入を防ぐために講じたと思われます。
比高の高いところは尾根筋の東側側面
切岸を加えて帯曲輪状にした土塁状の防塁型ラインになっていました。
(但し、登山道と重なる部分がありシダのブッシュを払い確認する必要があります。)

それに続いて写真のように、帯曲輪状の横堀が次第に掘り込んだ横堀になり、土塁+横堀+畝状空堀群の防塁型ラインになります。
横堀
により外側の掘り残し部分を潰すためにピッチ細かく谷まで下らない短い畝状空堀群が築かれています。

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傾斜も関係なく、麓の尾根筋まで土塁+横堀+畝状空堀群が続きます。なかなかの圧巻な部分です。
但し、麓では登山道が
別に派生する尾根筋に行ってしまうので要注意。
こうした防塁型ラインは秋月氏・一万田系高橋氏・長野氏など勢力圏の主要城郭に共通してみられます。
馬ヶ嶽などの縄張り技術が長野城の縄張りに集約されている点は注目されます。

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馬ヶ嶽城からは京都郡や仲津郡が一望できます。
上の写真が行橋市・みやこ町勝山方面、苅田町側
。遠くに松山城が見えます。
下の写真はみやこ町犀川・豊津
方面。遠くに周防灘が見えます。
馬ヶ嶽
自体はそこまで高くないのですが周囲が平野・低い丘陵なのでかなり見渡せます。
永禄期に規矩郡を退去した長野氏が京都郡に勢力を伸ばしたことがわかります。
そして、防塁型ラインを取ってつけたように築いた点から、最終段階
に駆け込み状態で整備したものと考えられます。
長野氏自身は
緒戦で高橋氏が小倉から撤退すると豊臣政権に服属しますが、
それは結果論であり、当初はかなりの抵抗姿勢を示していたことが
窺えます。

2013年4月22日 (月)

底井野往還と猫城

一日中いい天気でしたので、所用が終わった午後から中間市底井野にある猫城を観てきました。
遠賀川を渡り、筑前垣生駅を通過して上底井野の月瀬八幡宮まで行きます。

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写真の通り、周りは遠賀川沿いに低地な平野が広がるのですが、ところどころにこうした小山があります。
うした独立した小山のひとつを城郭化したものが猫城です。

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山上は月瀬八幡宮の社地となっており、社殿が築かれています。
社殿の造成で土盛りなどの普請があったと思いますが、
周囲をみると、岩盤質の山の頂部を整地した2〜3段の曲輪から成る単郭構造だったようです。
ぐるっと斜面をみてみましたが、急斜面なところが多く緩斜面なところにも竪堀はみられませんでした。

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山上から南を眺めると、東西に底井野往還(赤間〜猿田峠〜中間〜上津役)が走ります。
(底井野往還については
コチラのサイトが詳しいです)
猫城のある底井野遠賀川の渡河点に近く、中世以来底井野郷として史料に出てきます。
佐野
が大宮司職を持っており、往還上の村落を掌握するために背後の小山に城郭が築かれたものとみられます。
遠方には鞍手町の劔嶽城もみえます。さらに右手奥には笠木山城らしき山も臨めます。
北は遠賀郡(御牧郡)全体、南はおおよそ鞍手郡をみることができます。

戦国時代後半
天正年間には猫城は遠賀川下流の低地地帯を押える麻生氏と、
赤間から猿田峠を越えて
方へ勢力を伸ばす宗像氏の係争地になったようです。
天正後期に
なると、宗像氏は遠賀(御牧)郡西部に進出し山鹿城の麻生氏を取り込んでしまいます。
その過程で遠賀川の
渡河点に近い底井野の猫城は宗像方が掌握するようになったとみられます
これに対して、鷹取城主として鞍手郡の遠賀川東岸に入部していた大友方の毛利鎮実が、
糟屋郡立花山城の戸次道雪と呼応して、遠賀川を渡り猫城を攻めたとする記録があります。
の戦闘では宗像勢が撃退しており、西側は立花勢に押し込まれるものの東側の遠賀・鞍手方面は確保したことがわかります。
しかしながら、天正1
1頃とみられる麻生統春が底井野の佐野宮千代名字状を与えており、
この頃には遠賀
川東岸に勢力を持つ上津役の麻生氏が勢力を伸ばしたと思われます

江戸時代に底井野往還として整備された中間で渡河して
平野を横切る猿田峠越えルートは、
現在の鉄道網からはそうみえませんが、遠賀
郡東部の丘陵地から遠賀川を渡り宗像郡入る陸路のショートカットになります。
もう少し南
の植木から犬鳴川沿いに通るルートは永禄年間の毛利氏の筑前攻めルートにもなったように、
篠栗・久山方面から福岡平野・太宰府へ抜ける陸路のショートカット
とも近接しています
中・近世移行期の史料が少ない
鞍手・遠賀(御牧)郡界隈ですが、
戦国後期北部九州の
様相を考える上ではなかなか看過できない交通ルートのようです。

猫城はプランとしては園田浦城や山鹿城などと同じくこれといった特徴はありませんが、
周囲には、土塁・横堀・
石垣を持つ竹尾城や畝状空堀群+石垣の花尾城など東側の城郭群に加えて、
南東側の鷹取城、南西側の劔嶽城や
城など畝状空堀群を多用するものなどがあります。
うした様々な特徴を持つ周囲の城郭跡との縄張り構造の対比からみえてくる知見をもとにすると、
上記の戦国期の様相を
勘案し少ないながらも文字史料を洗い直す過程で、この地域の戦国末期の様相がいろいろみえてきそうな気がします。
そうした辺りをつける夕方下見になりました。

2013年4月 8日 (月)

新年度は豊前長野城から。

新年度最初のお休みは長野城跡に登ってきました。
大学院時代にはじめた
北部九州戦国期城郭の研究、福岡平野からはじめてここへたどり着くのが目標でしたが、
13年遅れでようやく
下見開始
前年度はこれまでの経過を確認する
作業を進めてきましたが、今年度からは実際の踏査を含めて
長野城跡
を含む豊筑地域の戦国期城郭の到達点について詳細を詰めていこうと思っています。
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長野城跡は麓の緑地公園から登ります。往時は林道から近づけましたが車輌規制され、現在では陥没したりしてました。
写真の凸3つが左から二の城、主郭、そして三の城。
写真中央辺りに沢伝いに以前に地元の方がつけた登山道の目印が残っています。三の城にたどり着きます。
わからない場合は、無理せず林道をテクテク
歩いても30分くらいで着きます。

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長野城跡と言えば、無数の畝状空堀群が有名です。
アタマを横堀でまとめた畝状空堀群による防塁型ラインが主郭、二の郭、三の郭の外周を取り囲みます。
1990年代に村田修三・千田嘉博両氏により縄張り図が作成されていますが、
当時
は、把握されていない城郭跡について遠隔地での調査という制約から速報性が重視されました
それ故、基本的な評価は変わりませんが、
詳細では精査により補っていく部分もあります。
その辺は、今日の地元に在住
する研究者がやるべきことであり、既に北九州市による詳細な測量図もあります。
ですので、せっかく福岡県に戻ってきたし鳥栖市の勝尾城に続いて
追加の縄張り図作成をしようと思っています
この日の踏査はその辺の下見も兼ねたものです。

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長野城跡は畝状空堀群だけでなく、通路状に削り残した土塁を用いた長城ラインにより城域の各地区を一体的につなぐ構造特徴的です
通路状の長城ラインで主郭と一体的につながる二の郭・三の郭は縄張り的には同じパターンで構成されていて興味深くあります。
また、上位の曲輪から下位の曲輪の側面に土塁を配し連郭式に曲輪を並べた構造がの郭・三の郭にみられます。
秋月氏や一万田系高橋氏と関連する勢力の拠点城郭にみられる縄張り技術が
随所に組み込まれている点からも、
長野城跡が
北部九州の戦国期城郭の到達点であることが窺えます。

これまで長野城跡は文献史料から永禄年間の長野城合戦に引きつけた評価がされていましたが、実際の城郭遺構を突き合わせた場合、
戦国末期の秋月氏と与同する勢力の持城の分布から、天正後期の高橋元種が整備した企救平野に面した最前線の拠点城郭と位置づけられます
それ以前に、実際の遺構で
積極的な防塁型ラインの採用と膨大な土木量の投下をみれば、感覚的に天正年間とみるのが自然なところです(^^ゞ

2013年3月31日 (日)

桝形は横堀を越えて。

河内烏帽子形城へ行ってきました。
中村一氏が改修したことが「宇野主水日記」にあることで知られた山城です。
食い違い
に入る横堀に対して、主郭第2から桝形空間を押しだすように構えた虎口プランを実見したかったからです。

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これで有意義な2012年度も無事終わり、
次の2013年度へ。

2013年3月30日 (土)

秋月方、若松半島に至る。

若松半島の真ん中、岩尾山の背後にある花房城跡に実見しました。
単郭構造ながら、土塁の曲輪と横堀+畝状空堀群の防塁
ライン。
山上からは遠賀川河口
から洞海湾を見据えることができる喉元を押さえる立地。
花房
城跡は、天正後期に遠賀川に沿って、ここまで秋月方が進出していたことを示す物証です。

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2013年3月21日 (木)

半世紀の時空を超えて

今回、ようやく関東衆が問題と騒いでいたあのお城に行くことができました。

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今回はじめて実見できた杉山城跡に、以前に見学した滝山城跡の写真を組み合せてみました。
どれがどれかわかりますか?この違和感のなさがなかなか興味深いです。


文献史料にある廃城年を鵜呑みして造られた瀬戸大窯編年をさらに文書屋さんが鵜呑みして、
これに、何とでも解釈可能な文字史料を組み合せると
……
戦乱に明け暮れた十六世紀
の関東では、
城郭などの軍事的土木技術は、それ以前におそろしく飛躍的に進化した後は、ほとんど進化がなかったとなる
それを以て、後北条氏は早くから城郭技術が成熟した優れた戦国大名だとかいう
説もあるんだとか。
目の前
にある400年以上動かない「実物」見比べて、遺物編年の尺度に違和感を覚えないセンスに、何ともな気分

2013年3月17日 (日)

竹ノ尾城に行ってきました。

去年に花尾城と帆柱山城に登ったのですが、ようやく上津役・市瀬の竹ノ尾城に登ってきました。
近くに変電所があるため、九州電力の送電塔が何本もあります。そのため作業道が城跡まで通っていて登る方が楽です
都市高速沿いの林道入口に車を止めてから、九電作業道を
登って行くと15分ぐらいで城跡に到達します。

竹ノ尾城は尾根筋の先端に築かれた山城です。
最も高い
主郭から尾根筋に沿って段々畑のように曲輪が連なる縄張りとなっていますが、
この城跡の特徴は、
段々に連なる曲輪群の両脇を土塁(石塁)でつなぎ、外側を横堀でグルッと囲んで遮断線を築く、
防塁型ライン
で城域を一体的に囲む点にあります。
『福岡県の城郭』に縄張り図がありますが、あらためて実見すると、
上段の曲輪から土塁が派生して下段の曲輪の両脇をつなぐ、その土塁がスロープ状に通路となるというパターンが
端の主郭から西端の下位曲輪まで7段ほど延々と繰り返されることで城域が形成された縄張りでした。
この
土塁で挟むパターンは長野城跡や立花山城馬責め馬場、障子ヶ嶽城の外、花尾城などにもあり、
この地域の在地系城郭では一般的にみられるもので、おそらく、このパターンの虎口プランが在地系城郭の到達点と考えられています。
その
パターンを愚直なまでに繰り返して城域を形成するやり方に、
最終期
に結集した軍事力を囲い込むためにこの城跡が整備されたことが窺えます。

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左側に土塁があります。曲輪の削平は予想よりもしっかりしたものでした。手前から奥へ下っていきます。

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曲輪の外側には一重の横堀がぐるっと廻っています西端部にも横堀が回り込み、
土塁・切岸と共に前線の遮断線を築いています

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西から東側へのアングル。上曲輪から伸びた土塁が段々の曲輪を一体的に繋ぐように続きます
ところどころ石列があり、どうも石を
並べた石塁に盛りようです。
こうした土塁ラインは花尾城山頂にもあり、共通性がみられます。

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さらに土塁は上っていきます。左側の切岸の下は平行して横堀も上っていきます

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主郭から西側を臨む。土塁がずっと伸びていくのがわかります。右側に横堀がみえます。
主郭の背後
は傾斜する部分を削り込み一段低くして削り残しの土塁で囲みさらに外側に横堀を廻すことで、
堀切のような役割をもたせていました。

このように、主郭から段々の曲輪の周りを土塁と横堀で囲繞した独特な縄張りを持つ竹ノ尾城は、
城主は
芦屋の麻生隆実・家氏とは別の系統になる麻生鎮里・統春とされています。
今日残る竹尾城は想像以上に城域が広くあり、近くにある帆柱山城や花尾城と共に
最終段階に帆柱山に寄った
鎮里・統春側の麻生氏勢力はかなりの軍事力結集をはたしていたようです。
また、花尾城には大掛かりな畝状空堀群があることを勘案すると、麻生氏
単体ではなく、
どうも秋月氏の遠賀郡進出に
与同した結果、こうした大規模な軍事力結集が果たせたと推察できそうです

長野城や花尾城・帆柱山城など周囲の城跡
と勘案て考えると、竹ノ尾城を含む帆柱山周辺の城郭は、
戦国末期の
北九州を舞台とした豊臣政権と麻生氏ら秋月諸勢力との衝突の1頁になりそうです。
そうした目線で今後、
文字史料にもあたってみたいと思ういい手掛かりを得ることができました。

2013年3月14日 (木)

城郭研究の学会展望。

建築史学会の学会誌『建築史学』59号に木島さんが城郭研究についての学会展望を書かれています。
木島孝之「城郭研究―「縄張り研究」の独自性を如何に構築するか―」

http://www.sahj.org/index.php?lang=jp&snd=2&trd=59

ボクにとっては耳にタコができるぐらい聴いている話しでしたが、活字になるときっちり消化できていないなあと痛感します。
これから城郭研究を目指す若き研究者に読んでほしいと思います。
そして、九州で木島さんがやっている研究のスタイルが、
村田修三さんの提唱した「城郭跡
を在地構造分析と地域研究の史料として活用する」路線
研究手法と
理念構築を突き詰めようとしていることが理解できるかと思います。
問題はこの雑誌やコピーをどうやって入手するかですかね。
建築史学会の学会誌置いている図書館はそうそうないですから。

私自身もこ
れからしっかり消化して、山のような宿題返しをやっていくことにしたいです。

2013年3月11日 (月)

八ヶ国大守の居城。

中国八ヶ国大守となった大大名毛利氏の本城、吉田郡山城に行ってきました。
これが八ヶ国大守で石見銀山を押えた戦国期屈指の大大名の
到達点

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そして、
八ヶ国大守の出発点

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2013年2月26日 (火)

生まれ来る子供たちのために。

生まれ来る子供たちのために、何を語ろう
http://www.youtube.com/watch?v=Cjba77_WdXc


何を語ることが
できるだろう。

2013年2月24日 (日)

相方城に行ってきました。

23日に福山市新市町の相方(佐賀田)城に登ってきました。
車で帰省する途中に、山上まで道がついていることもあり、この際きっちりみておこうと思ったからです。
元々、『織豊城郭』などで関ケ原戦以前の毛利氏段階の石垣の
事例として紹介されてきたもの。
しかしながら、縄張り構造
や矢穴の使用といった石垣の様相をみると、慶長期福島氏段階にみえてしかたなかった事例です。
なので、この機会
に実見しようと思ったわけです。

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山上にテレビ塔があるため、麓の工業団地から車で登ることができます。ここからでも石垣がみえます

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山上です。テレビ塔のある方の峰が主郭部(西側曲輪群)です。手前東側曲輪群です。
その間
は馬蹄状の痩せ尾根になっていて土橋状の通路となっています。特に掘りきったというわけではありませんが。
その痩せ尾根
の通路に向けて外桝形の嘴状虎口がグイッと決めていることがわかるでしょうか。
崖になる嘴状虎口の左側
塁線には横矢掛かりが効いていました。
竹田市の豊後岡城を見慣れた眼からは、東西の仕切り門
があって側面に東西をつなぐ城道を配したやり方はそっくりに映ります。
要所に効果的に配置する豊臣系大名の縄張り技術
が感じられます。
防長時代の毛利氏でも岩国城・長府
城など一門級の持城を除く支城群にはこうした技術はみられません。
八ヶ国時代に
はできたのかもしれませんが、普通に考えると福島氏と考える方が妥当な気がします。

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西側の平入り虎口とされるも
の、石垣塁線はほとんど直線的なので平入りに見えます。
でも、縄張りからよく観察
ると、右側の曲輪は左側の上位曲輪からスロープ連結する虎口の溜まり空間になります。
時計回りにグイッと廻してこの位置に出入り口を設け
た縄張りと評価できます。
一見、
溜まり空間が肥大化して曲輪になっているのでわかりづらいですが、模式化して考えると理解できます。
東側に向けた嘴状虎口と併せて
東西に伸びる山上の主郭部東西にグイッ、グイッと外桝形虎口を決める辺り、
豊臣系新興大名ならではの合理的な縄張り構造に見えます。

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石垣の様相をみても、算木積みもしっかりしており、これだけみせたら慶長期でも十分いけますね。
もっとも、石垣の積み方にはおおよその流れはあっても時期を判定する尺度にするにはばらつきが大きいので参考程度ですが。
山上にしては、けっこうな
石垣です。
福島氏の石垣では、亀
城や鞆城などで確認することができます。

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東側の嘴状虎口付近にある石垣の矢穴です。だいたい12センチぐらいだったか。あちこちにありました。

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相方城の立地は、福島時代の支城とされる神辺城と備後府中の中間にあります。
神辺方向に見通しがよく、神辺城の詰め城ではないか、或いは神辺城に代わる山城として整備したのではないかと思うところあり。
この辺は、三次の尾関山城と背後の比
山城とのセット関係との類似性などを勘案する必要があるかなあと思っています。
山城もしっかりした縄張りとのことですので、こちらも調べてみたいです。

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そして、備後府中側。こちらの方が近いです。国府のある平野部を広範囲で押える立地ということがわかります。

相方城については、文献史料がないことから福島氏段階
ではなく毛利氏段階の事例と評価されてきました。
しかし
、縄張り構造からも石垣からも、また周辺の地理的状況からみても福島氏段階でいいのではないかと言うのが私見で、
今回、実際にみてさらに
確信しているところです。
多くの方が既に、これは関ケ原以後だろうと申していますが、そ
の意見に賛同しながら、
福島領の領域構造について城跡からの分析を含め、引き続き調べてみたいと思っています。

2013年2月19日 (火)

千石堀城跡の調査。

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5日間、8時から17時半まで千石堀城跡を調査してました。
よく知られているコンパスと歩測・距離計で測定する縄張り図の調査法ではたいてい1〜2日程度でできる規模です。
しかし、レンザティックコンパスと巻尺でベクトルを取りながら作図する方法ではのべ5日かかりました。
その分、じっくりと城跡に居るので、
遺構を読み込んでいる中で次第に縄張り構造がみえてくるようになります。
不思議なもので、造り手の感覚がみえてくるのです。

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上が北。主郭部は虎口櫓台の配置、微地形の評価などで
縄張りを読み込むのにけっこう難儀し
ました。3日経ったところ。

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4日目。1重目の空堀と2重目の空堀半分を終えたところ。

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5日目の午後過ぎに終わったところ。
これから清書し
て完成します。

じっくり取ることで、この城跡のテクニカルな面がみえてきます。
読み取るには
それなりに修練が必要になります。
幸い、
わたしは九州にいたことで、縄張りの読み込み方をいろいろと耳学問ながら実地で学ぶことができました。
その感覚を手掛かりに、造り手の性格や組織社会的背景を考えながら、うまく図面上に表現できるかが腕の見せどころになります。

2013年2月14日 (木)

深堀氏の俵石城。

1月の年明けに長崎旅行をして、長崎市深堀にある俵石城に登ってきました。
長崎市からすぐの長崎湾の入口にある深堀は
、戦国期には海賊として名を馳せた深堀氏が拠点を置いた場所。
その背後
山上に俵石城があります。

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中腹の善長谷カトリック教会から登ることができます。西海の眺めがとてもよく、
成程、海の領主が居城にしただけのことはあると思った次第。

は高く登るのが大変かと思いきや、案外比高差を稼いでいたのもあり楽に登れました。

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登ると、曲輪ではなくぐるりを横堀と石塁・土塁が囲む巨大な単郭構造の奇妙な縄張りでした。
ぐるっと廻りましたが、本当に巨大でした。その代わり、内部は自然地形のまま。
一時は、牧
場ではないかという説もありましたが、この地域特有の松浦型城郭の巨大版と考えられているようです。
※松浦
城郭:真ん中にポコッと高いを残して周囲を土塁で囲んだ縄張りを持つ城郭。西海に多く分布するとのこと。
 →木島孝之さんの「九州における織豊系城郭」(『中世城郭研究』第6号、1992年)を参照して下さい。

そして、斜面には
大きな竪堀が何本も走る畝状空堀群がありました。竪堀の間隔は微妙に広いのが特徴です。
これを見ながら「畝状空堀群としてどうなんでしょうね?」とあれこれ。

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深堀氏は全国的にはあまり有名ではないですが、天正期の深堀純は兄西郷尭と共に長崎氏や大村氏と激しく争った人物
最終段階では長崎氏を圧倒し長崎湾を押え
て通行税収入など莫大な富みを得ていたようです。
九州国分けでは
自領を確保したものの、直後の天正16年に南蛮船からの徴集を豊臣秀吉から海賊停止違反として改易されています。
その後、鍋島氏に帰属
することで深堀に復帰し近世を通して深堀を拠点に深堀鍋島氏として続きます。
海賊
停止令については村上水軍などで多くの研究がありますが、その一方で、深堀氏に対する停止令について関心が払われていません。
しかし、
俵石城の規模と投下された土木量をみるにつけ、文字史料の歴史学では全く以て扱いの悪い深堀氏について、
豊臣政権による海上勢力の掌握策併せて、城郭遺構から深堀氏の再評価が必要だろうという話しを聴きながら見て回りました。

その辺の詳細は、24日に長崎市の深堀公民館にて、木島さん講演会「俵石城の縄張り構造と深堀氏  で話になられるとのこと
15日までに申し込まれた方は、お楽しみに
(^^

2013年2月13日 (水)

岩波新書『信長の城』

村田修三さんの1979年の「城郭遺構を地域史と在地構造分析の史料として活用する」とする縄張り研究の提唱と共に、
新生城郭研究の
重要な理論的枠組みとなった織豊系城郭編年案」(通称、千田編年を1987年に提示された千田嘉博さん
このたび、
岩波新書から新刊を出されました。

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岩波新書にしては、チャラい(^^ 帯ですが、
内容は主著の
『織豊系城郭の形成』(2000年)以来、幾つかの論文などで書かれてきた
千田さんの織豊系城郭論が信長のライフヒストリーに沿ってコンパクトに語られています。
我田引水的な論を展開される「お城の論者」さんの監修や編集本が氾濫する中で、
縄張りの
視点からのものは少ないので、千田さんのこれまでの論点の一端を押えるためにもご一読を。

千田さんは以前に
ちくま新書から『戦国の城を歩くを出されていますが、
戦国期城郭を語るよりも、織豊
城郭を語られる方が活き活きしていて、
千田さん
研究の特色である「理念先行型研究」のよさが出ていて読みごたえがあります。

2013年2月12日 (火)

お城屋さん、故郷に帰る。

2月第1週まで原稿のヤマでしたので、ここまでウェブログを控えてました(^^

ということで、三連休は実家に帰省してお城の図面を書いていました。
場所は、和泉国日根郡にある千石堀城跡です。

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二重の横堀に比べて内部はだらっとした感じですが、よーくみてみると……。
周囲の切岸は弱いのですが、対称的に主郭はしっかりしたものです。

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主郭の周囲にある曲輪はゆるっとした感じに切岸が流れていますが、丹念に拾うといろいろみえてきます。

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よくみると、虎口プランもみえてくる、そんな千石堀城跡です。

これまで15年間、九州の在地系城郭と織豊系城郭を主戦場にやってきました。
美作国で宇喜多氏の山城と陣城を調査した以外では、なかなか関西で城郭調査をする機会はありませんでした。
1〜2日程度でちゃちゃっと調査するスタイルではないので、何度も往来するのが資金的に厳しいのが理由です(^^
今回、三連休があって天気が良かったのと、正月明けにこの城跡を案内していただき、その際「はっ!」と気づいたのもあって、
はじめて実家に帰省して腰を据えて調査に出向くことにしました。

故郷は、天正13年の岸和田合戦から根来攻めに続く戦場の地です。
紀州街道・熊野(小栗)街道・粉河街道・水間道など小さな頃から見慣れた歩いた古道と、土地勘と、
これまで自分が勉強してきた城郭史の調査法と視点、
そして、これまで岸和田城シンポなどをみて、和泉の中・近世史移行期研究の動向と史料を押えてきたこと。
これらのいろいろなあれこれが、ようやくボクの中でつながってひとつの叙述が紡ぎ出される。
長いことかかったけど、縄張りを読む力と土地勘なら関西の他分野の研究者と十分にわたりあえる。

というわけで、お城屋さん、故郷に還る。
少しは親孝行になるかなあ。そして市史編纂の事務方だった亡き祖父も喜んでくれるかな?(^^

Foxkeh! フォクすけ!


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