あれこれ告知板。

日々、城郭跡の史料的活用を実践し、真の学際的研究たらんとする城館史料学の長い道のり。

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※あれこれ・ラボは、城郭跡などの痕跡から地域を読み解く「屋根のないあおぞら博物館」目指して『御討入り』。

■あれこれ・ラボ (九州版)へようこそ!■
城館史料学からいろんな領域へ、『痕跡から読み解く研究日誌』あれこれ・ラボへようこそ!
2012年4月、竹田市から北九州市は長崎街道沿いに拠点を移しました。
稼業では屋根のないあおぞらミュージアムを常に考え、本業では
地の利を活かして中国〜九州方面の城館調査等を進めていきます。
「城館史料学と縄張り屋家業」拙稿はコチラ)で城館史料学と城郭跡からの文化財学構築を目指し、日々、精進しています。
竹田市の仕事場に私宛の郵便物を送らぬよう、城館史料学ベースの日々へのあれこれは自宅(お電話・メールでお問合せ下さい)まで。

■あれこれ・ラボ のトピックス■
☆平成22年度後期、別府大学(非常勤)で『城館史料学概論』(集中講義形式)出講しました。
90分×3回の12回の集中講義で縄張り研究ベースの城郭研究「城館史料学」を専門的に掘り下げました。 
 
倭城研究シンポジウムⅡ 倭城〜本邦・朝鮮国にとっての倭城とは〜
 で報告しました。 
12月10日(土曜日)・11日(日曜日) 場所:九州大学旧工学部本館 講堂@箱崎キャンパス

■書籍のご案内■
混浴温泉世界—場所とアートの魔術性—

ボクが直接関わっていませんが2009年のコンヨクを知る決定版!カバーページのたくさんの人の集合写真に交じってなぜか居たりします(微笑)。
福岡県の城郭—戦国城郭を行く—福岡県の城郭刊行会編、銀山書房
福岡県の中世城郭についての最新成果が納められた一冊。縄張り図も多数収録しています。福岡県内の城郭のガイドブックとしてどうぞ。
☆『日本歴史752号(2011年1月号)』

吉川弘文館『日本歴史』の新年特集に城館史料学からみた城郭跡整備の問題点について寄稿しています。よろしければご高覧下さい(._.)オジギ
『歴史読本2011年5月号』新人物往来社
特集「日本全国、名城の条件」にて、杉山城、滝山城、本佐倉城と姫路城、赤穂城、五稜郭を執筆しました。

2012年5月15日 (火)

都市を描く-京都と江戸- の図録を仕入れました。

つい最近まで、歴史民俗博物館と国文学資料館で開催されていた、人間文化研究機構連携展示『都市を描く-京都と江戸-』の図録を仕入れました。
東京に行けませんので通販で仕入れたもの。2000円+送料。
今回は、一連の洛中洛外図屏風に加えて江戸図屏風も出ていたので一冊でまとめて見ることが出来るなあということで入手。
図版もキレイでみやすくてよい感じです。
洛中洛外図関係はこれまでも図録などで見ることが出来ましたが、
江戸図屏風はなかなか仕入れる機会がなかったのでありがたいなあと思う次第。
詳細はコチラ↓
http://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/o120327.html
通販はコチラ↓
http://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/catalog/index.html

2012年5月12日 (土)

嘉麻・小石原越えと秋月氏。

上津役のある北九州市南西部から竹田市へ向かう最短ルートは、日中はスローなので夜に走るとすると、
直方・飯塚から国道211号で小石原越えをして日田から212号→442号で小国・黒川・瀬ノ本越えをするコースがベター。
これは、長崎街道(上津役〜飯塚)→日田街道(飯塚〜大隈〜小石原〜日田)→日田往還(日田〜小国〜久住)と
古来からの内陸ルートを走るカタチになります。

戦国後期に遡ると、上津役から直方以北は麻生氏ですが、直方から小石原・宝珠山までは秋月氏の勢力圏になります。
飯塚を過ぎて嘉麻市を通る間は、北側に秋月種實の隠居城(と言っても最前線)益富城を、南側に本拠古処山城を見ることになります。
そして、毛利鎮實から奪取した馬見山城をみつつ、小石原に登ると松尾城(後に黒田六端城)を横目に越えていくカタチになります。
院生の頃から秋月氏については研究テーマにして調査していこうと思っていたのですが、
福岡や竹田に居る時は直感的にイメージをつかむのに苦労したものです。
しかし、国道211号を走ることで、直感的に「秋月氏は遠賀川流域に勢力を伸ばしたのだ」ということがだんだん実感として湧いてきました。

古処山を挟んで南側では、秋月に近い小石原川を下って筑後平野へ進出する方は敵対した柳川藩立花家中に参画した諸氏の記録から
断片的に秋月氏の動向が把握できます。
一方、北側の方は宗像郡や御牧郡まで勢力を伸ばしたようなことはなんとなくわかるのですが、敵対した勢力を含め史料的に乏しく
なかなか把握が難しいのが現状です。
秋月氏の北側への進出過程を考えると、彦山川から香春・小倉津へ伸びる秋月街道沿いには一門の高橋氏が勢力を伸ばすのに歩調を併せて、
遠賀川沿いに秋月氏が北上して両輪のように豊筑地域を席巻していった有り様が浮かんできます。
御牧郡を支配していた麻生氏は筑前側からは秋月氏、豊前側からは高橋氏の圧力を受けて最終段階ではかなり苦慮したものと考えられます。

九州出兵前夜の豊臣政権からもっとも警戒されていた秋月氏は、戦国末期には豊筑地域を席巻した大勢力に発展したのですが、
文献史料の少なさから、北部九州でもほとんど注目されていないようにあります。
唯一、彼らが多数築いた技巧的な畝状空堀群を積極的に多用した城郭群にその痕跡を見出すことが出来ます。
城郭跡の調査成果をベースにしつつ、秋月氏の本貫地に近い国道211号の嘉麻市ルートで秋月氏ゆかりの痕跡を探っていくことで、
朝倉市秋月と併せて、ある程度は、戦国大名秋月氏ゆかりの地として位置づけできるかもしれません。
今後、注意して遠賀川流域、まずは嘉麻郡から地道に痕跡を拾っていきたいなあと思う次第です。

2012年5月11日 (金)

銅鐘の音と中川神社。

11日にニュースになっていましたが、
中川神社所蔵(竹田市立歴史資料館寄託)のサンチアゴの鐘を、竹田市がメンテをして鐘を鳴らすプロジェクト。
いよいよ、幻の鐘の音が録音されたとのこと。神社を管理されてきた地元の方々も喜ばれていることでしょう。

“幻の音色”時代超えて「サンチャゴの鐘」
竹田市の録画ニュースで音が聴けます→コチラ(いきなり音が出ます)

で、せっかくなので、サンチアゴの鐘の音について聴き比べるサンプルをご案内。
以前に「奥豊後のキリシタン展」取材を兼ねて帰省した際に、
大阪市北区中津にある南蛮文化館所蔵のキリシタンベルと妙心寺春光院のキリシタン鐘(1577の銘あり)を見学したことがあります。
その内、南蛮文化館のキリシタンベルは、細川忠興が友人の森忠政が津山城を築く際に贈呈した
九曜紋入りのベルという由緒あるものですが、館蔵品なので自由に叩くことが出来ます。
ボクも鳴らしましたが、とても澄んだ響きで余韻の残る音色でした。

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知人のうききさんが、その音を録音されていたので参考までにダウンロードして聴き比べてみて下さい(^^
http://ukikimaru.ran-maru.net/ran/jiten/yougo/asagao.htm

ところで、館の過去の所蔵品図録などに掲載されていることなので周知のこととは思いますが、
中川神社の宝物には、サンチアゴの鐘以外に、伝中川秀成着用の甲冑や中川家の馬印、家紋の幟などもあります。
現在、拝田原にある中川神社は前身は岡城東ノ郭にあった中川家の霊廟「荘岳社」がルーツです。
ですので、神社の宝物のほとんどは、藩政時代に中川家が先祖を祭るために由緒ある品々を納めたものから構成されています。
もちろん、現在も祭神は中川家の藩祖である中川清秀と子の秀政、秀成です。

今回の岡藩城下町400年祭は中川秀成が亡くなった年にちなんで開かれるものです。
でしたら、これらの中川家由緒の「幻の宝物」も中川秀成が亡くなった年に長崎の施療院に掛けられたサンチアゴの鐘同様に、
精密な調査とメンテ(できればレプリカ作成)で日の目を見せてやってほしいと思うのは、私だけではないでしょう。
ぜひとも、これを機に、岡藩ゆかりの荘岳社をルーツとする中川神社と宝物が注目されることが期待されますね。
 

2012年5月10日 (木)

たけログ、復活させました。

かつて、歴史資料館勤務の際に、たけログという非公式ウェブログを試験的にこしらえたことがあります。
要は竹田直入地域の自然と歴史と文化に関するあれこれを載せていたものです。
資料館勤務から異動になった際に閉鎖したのですが、前々からあれよかったのにという声をいただいていました。

で、今回、エコミュージアム的なノウハウを学ぶことも考えて決めたことも踏まえて、
せっかくなので、竹田直入地域を素材に、ウェブ上にエコミュージアムな視点で綴ってみようと思いました。
ということで、たけログというカテゴリーを新たに起こしましたので、おいおい加筆していこうと思います。
よろしくお願いします(´ー`)。oO

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2012年5月 6日 (日)

『織豊政権と東国社会』購入しました。

「未知なる城を求めて」の管理人たけさんこと、竹井英文さんの論集『織豊政権と東国社会』が刊行されたとのこと。
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/30430522.html
さっそくお問い合わせして、直接購入させていただきました。

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ありがとうございました(私信)。
近年さかんな織豊期の関東について他の成果と併せて、じっくり読んで勉強したいと思います(・ω・)ノ

2012年5月 3日 (木)

10人10冊の日々。

久住白丹に週末ギャラリー兼2nd.アトリエを営まれるダルヴィーダの佐藤さんから依頼をいただいたのは去年の終わり頃。
白い本を預かり、毎日のことを書いてほしいという提案でした。
城郭研究者の日々をどう書こうかと思っていましたが、年が明けてあれよあれよという間にハコ芸への復職が決まってしまい、
日常どころか、非日常のドタバタに放り込まれた次第。

そこで考えたのは、竹田市に居るのことを整理できるのはこのときだけと思い、そちらに集中して白い空白を埋めていくことにしました。
もっとも手元にあるのは終わりの5年間くらいのこと。
しかし、ハコ芸に復帰するベースを培ったのは終盤の数年間の試みが大きかったのも事実。
そうした軌跡のいくばくかをノートに残すことで、竹田での日々を忘れないようにしたいと思いました。
そして4月末に無事納品。3日から展示がはじまったので、さっそくダルヴィーダに行ってきました。

久住高原 DAR VIDAから大分県久住高原の週末と祝日オープンのアートスペースです。

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ボクの本はともかく、他の方々の作品から、いろんな方が竹田市の久住町白丹にあるギャラリーを通して、
様々な交わりを持っていたことの面白さを感じることができると思います。

今回、白い空白を埋めながら、自然と歴史と文化ベースで取り組んだ自分のハコ芸な活動と、
食育ツーリズムで名を馳せたパッケージ事業を重ね合わせていろいろ考えました。
というのも、ダルヴィーダと今回10人の中に加えていただいた皆さんとの間には、パッケージ事業で学んだ
地域を介したデザインプロデュース&経済的循環プログラムを共有できるんだろうなと思ったからです。
加えて、そうした舞台を設定し受入れる豊かな風土を持ち合わせていることが、
竹田市域の自然と歴史と文化の厚みを証明するんだろうとも思い至ったからです。

地域に根ざすひとたちと遠来から往来する専門家と呼ばれるひとたちが付かず離れずでうまく交わる土壌を持てることが、
パッケージ事業の分野で「竹田方式」と呼ばれる、或いは岡の里事業が目指した「エコミュージアム」と言う、
様々なカタチで地域を介したデザインプロデュース&経済的循環プログラムのキモがあったような気がします。

学芸職としてはあんまりいい扱いを受けなかった13年間でしたが、
竹田方式と呼ばれるまでになった地域を介した
地域を介したデザインプロデュース&経済的循環プログラム
あるいはエコミュージアムと呼ばれる取り組みの片隅で同じ時間を共有することが出来たことは財産ですし、幸せ者だと思います。

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2012年5月 2日 (水)

筑前花尾城跡に登る(後編)

花尾城跡には「水貯め跡」を囲むように登り石垣があります。
もちろん、そちらも巡見してきました。
「水貯め跡」を囲むように両端斜面に登り石垣が走っています。すぐ側には麻生氏時代の畝状空堀群がありますがおかまいなしに石塁を伸ばしています。
登り石垣の評価については、同行いただいたQ大の木島さんの見解では織豊系勢力による局所的な改修(黒田氏段階が濃厚)の可能性が高いとのこと。
麻生氏段階にしては、在地系縄張り技術に同様なプランがないこと、畝状空堀群と無関係に配されていることなどが疑問点ですし、
むしろ豊臣系大名による織豊系縄張り技術ベースの近世城郭に井戸や
水貯めを石垣で囲む事例がみられること、
(但し、花尾城跡の場合は曲輪というよりも
「水貯め跡」を二本の登り石垣で挟み込んだ感じですが。。。)
などを鑑みて、遺構をみながらあれこれ伺いましたが、その線が濃厚な感じがします。
なお、現状の登り石垣は東側の分は階段になっていておそらく後にに天場部分に手を加えた可能性があるので要注意です。
全体的には下の方が崩落部分などがあったり相対的に雑な部分もみられますが、上の方を中心に全体的にしっかりした石積みになっています。

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全体の縄張りとこの登り石垣の部分との対比を考えながら、縄張り調査をする必要がありますね。

2012年5月 1日 (火)

筑前花尾城跡に登る(前編)

13年前に竹田市へ奉職するまで、自分の研究テーマとして北部九州の戦国期山城・丘城の調査を進めていました。
結局、竹田市に奉職したので、全体構想の内、調査は西半部に留まり、残りはそれ以降の調査成果に学ぶことで論文をまとめました。
竹田市に居た間は、大分県で中世城館の悉皆調査事業が行われたこともあり、大友氏関係の城郭から大いに学ぶところがありました。
その反面、白地図まで仕入れていた筑前国東部〜豊前国方面の豊筑地域の城郭跡については、なかなか直接踏査する機会はありませんでした。

それから、13年後。
ようやく豊筑地域にやってきました(・ω・)ノ 
おおよその成果は既に提出済みですが、踏査を再開し、随時暇をみて福岡県内の補足調査を進めていきたいと思います。

ので、北九州市内の主要な城郭跡のひとつ、花尾城跡にさっそく登ってきました。
これまでの縄張り図では中世城郭事典の八巻孝夫氏のものがあります。また北部九州中・近世城郭研究会での調査図もあります。
その中で、
「水貯め跡」の登り石垣を除く他の石垣の確認などから麻生氏以後の改修の可能性がないかみておこうと言うことで
Q大の木島さんにご同行いただいて、登りました。

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花尾城跡を歩いた結果、縄張り図としては中世城郭事典の八巻図が概要ではほぼ押えたものでした。
但し、花尾城跡のある花尾山は岩盤質であちこちに石垣状に切離した石があり確認が難しくありました。
加えて、昭和初期から花尾公園として何度も整備されており、その後に築かれたとみられる石垣もあり
さらに判別に困難さを加えていました。

その中で、花尾城跡の縄張りについては、基本的には山頂の主郭から地形に沿って曲輪を並べ要所に堀切を構えるなど、
典型的な在地系の縄張り技術であることが確認できました。
おおよそ曲輪の縁辺部には石垣塁線や根石列がみられないようです。その代わりに斜面には長大な畝状空堀群が多く確認できました。
戦国期最終段階の麻生氏が畝状空堀群の軍事的文化圏において積極的に畝状空堀群を構える軍事的エリートだったことがわかります。

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その中で、数少ない石垣の使用例として、八巻図曲輪Ⅴにある櫓台状遺構も確認できました。
正直、判別は難しいところがありますが、隅角部の処理や積み方から麻生氏最終段階の可能性が高いだろうとと言う評価になりました。
後日、別項でアップする
「水貯め跡」周辺の登り石垣が縄張りから織豊系勢力(おそらく黒田氏段階)と考えられるので、
それらの石垣との対比も興味深いところです。

この箇所は、竪堀から曲輪に入る虎口部分になる可能性があり、それを牽制するための櫓台状遺構とも考えられます。
それらの検討するには今後、花尾城跡の縄張り調査をやって精査する必要があります。
長大な畝状空堀群が多く上下移動の回数を思うと厄介な代物ですが、戦国末期の麻生氏の様相を押える重要な城郭跡ですので、やらねばいけませんね。

「水貯め跡」周辺登り石垣については、新たに記事を起こして紹介します。

2012年4月30日 (月)

『毛利家の至宝』の図録を仕入れました。

サントリー美術館で5/27まで開かれている『毛利家の至宝』展の図録を仕入れました。
報道ステーションを見ている方なら、毛利庭園というのでなじみがあると思いますが、
東京ミッドタウンは旧萩藩の毛利家下屋敷があったところです。
と言うことで、防府市にある毛利博物館の名品+毛利家下屋敷関係資料のセットで構成された展覧会の様子。

美術史的には、毛利博物館蔵の雪舟筆「山水長巻」などの一連の水墨画でしょうが、
ボク的には山口県文書館の「毛利家麻布御屋敷差図」などが興味あるところ……ですが、基本、美術工芸中心の展覧会ですね。
とあれ、毛利博物館のコレクションがまとまって一冊に仕上がっているので、とりあえずで仕入れた次第です。
これで大方、毛利氏関係はしばらくいいかなあ(^^

通販はコチラ→https://ssl1.suntory.co.jp/apl/oss/sma_shop/product/detail?PRODUCT_ID=CATALOG_53

2012年4月28日 (土)

豊後南山城を訪ねる。

28日は竹田市に戻り、白丹のギャラリー・ダルヴィーダで打合せ。
その帰りに白丹にある南山城跡を観てきました。

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戦国後期に稲葉川上流の白丹・宮城地域を統治した志賀氏(下流の志賀城・岡城に拠った志賀氏と別系統、南志賀氏と呼ばれる)の居城とされます。
城域はかなり後世の改変(植林の棚など)が入っているため、曲輪の配置などがわかりづらいところがあります。
下の写真にある正面の針葉樹のあるピーク部分が主郭と考えると、ほぼ自然地形に沿って平坦地が並ぶ配置となっています。
一部に堀切などが確認できますが、後世の掘り抜き道の可能性もあり精査する必要がありそうです。

しかしながら、大友軍主力を為した直入郡衆の主力であると共に、大友氏の重臣クラスの南志賀氏の居城であっても、
この程度の縄張りで十分だったことは注目されます。
豊後国南西部の阿蘇・久住の火山性の台地状地形に拠った国衆の城館はおおよそそうした傾向があります。
直入郡衆の主力を成した都野の朽網氏も同様で、最終段階まで丘陵地に居館を構えており、
背後の詰城、山野城も尾根筋をそのまま城域に取り込んで整備し、大堀切でぶつ切りにしたものです。
北志賀氏(下流域に拠った志賀氏)も大友氏の宿老クラスで大友軍の、志賀城や豊後岡城(中川氏の改修で以前の姿はわかりづらいが)、
騎牟礼城なども地形をそのまま用いて城域に整備したものです。


面白いのは、同じ直入郡でも南部の岩盤質の褶曲山地に拠った入田氏や大野郡緒方衆の持城では、
岩山の痩せ尾根を堀切や畝状空堀群で区切り、岩盤を削平したものが中心になります。
また、北部の下竹田地域では台地状の地形や山頂部でも横堀状の堀切や畝状空堀群でしっかり仕切るようになります。

直入郡では、入田氏と志賀氏や緒方衆・志賀氏は反大友方・大友方などの政治的立場で敵対しますが、
そうした枠組みと別に地勢条件によって選択した縄張り技術に違いがあり、地勢条件がある程度影響を及ぼしていたことが見て取れます。
戦国期城郭では、北東北型・南九州型のぶつ切りタイプの城館が火山灰台地地帯に分布することなどから
各地の地勢条件も在地系縄張り技術を左右する要因のひとつと考えることができると思います。
直入郡の城館からも郡内で異なる地勢条件と縄張り技術の分布が重なっており、在地系縄張り技術の様相を知る興味深い事例と言えます。

南山城跡は縄張り構造からすると大きな特徴は見出せないのですが、直入郡の城館全体で考えると重要な資料群のひとつと評価できます。
このように、城館を考えるときは、単体で考えるだけでなく複数の城郭群から読み解くことも考える必要があります。

2012年4月27日 (金)

豊前小倉城の馬出し。

豊前小倉城跡と言えば、寛永年間から幕末まで続いた藩主小笠原氏の印象が強いようですが、現存する小倉城の基礎を築いたのは細川忠興です。
城郭跡として考える場合には、慶長〜寛永期に豊前国の国持大名だった細川氏のイメージをもっと出したらいいのになあと思うところ。
忠興が手がけた居城クラスで今日も当時の姿を残す事例は小倉城跡ぐらいなものなので、忠興と小倉城はリンクさせる価値ありです。
幸い?小倉城に入部した小笠原忠真の兄弟が細川忠利(忠興の後継)夫人でもあり、義兄弟の関係。
ということで、細川・小笠原氏という文化面にも精通した著名な武家が小倉城跡でリンクするというのも面白いところです。

そんな小倉城跡は主要部を除いて都市化していますが、それでも今日までなんとかある程度残りが良い状態にあります。
織豊系縄張り技術のひとつである馬出しを重ねて城域を構成するタイプの近世城郭の代表例として評価される重要な城郭遺跡です。

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織豊系縄張り技術ベースの近世城郭については、「外桝形虎口」を重ねて城域を構成するタイプ(熊本城跡・福岡城跡)と、
小倉城跡のように比較的平地の城郭跡で「馬出し」を重ねて城域を構成するタイプの二つの系統があります。
詳しいことは、木島孝之氏の織豊系虎口プラン変遷案や千田嘉博氏の織豊系虎口編年案などを参照していただければと思いますが、

後者の「馬出し」タイプは市街化により破壊されることが多く、今日なかなか良好に残る事例が多くありません。

その中で、縄張り研究では、小倉城跡は開発の手や後世の改変部分が多いものの、当時の縄張りの様相がわかる数少ない事例と評価されています。
例えば、主郭(本丸)周辺では、現在、北九州市役所の議会棟となっている一帯や、八坂神社の敷地、小笠原庭園記念館の一帯、
そして、虎の門口の外にある三方の堀はないもののリバーウォークの敷地を成す街区などはかつての縄張りの雰囲気を伝えます。

いずれも、天守が復元されている小倉城主郭からの門の正面で出撃の足場となる「馬出し」が肥大化して曲輪となったものにあたります。
それらの曲輪化した馬出しの出入り口には石垣塁線が残されたり通路を構成する堀が貫入するなどして、今日も複雑な形状を残しています。
そうした「痕跡」を追いかけることで、現在は城址公園の小倉城跡から、慶長初期の細川氏による縄張り技術の一端が読み取ることができます。

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そうした「現存する小倉城跡」の面白さを伝える「城あるきレク」がいずれできればよいなあと思う次第です。

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毎朝通う道筋が城郭の出撃路であり、目の前のモノが堅固な守りを成す城門跡だとかわかると、明日から日常が違う風景に見えるかもしれません(微笑)

2012年4月23日 (月)

細川忠興と小倉城。

今回、北九州市に拠点を移ったこともあり、通勤の間『江戸城の宮廷生活』を読んでいました。

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北九州といえば、関ケ原後には、豊前国を領した細川氏と筑前国を領した黒田氏が激しく対立したゆかりの地。
ですので細川忠興にまつわる文献史学の成果として読んでいた次第。
何度か読み返していますが、何度読んでも忠興の人物像は自分にはない要素なので面白い。
そんな忠興が築いた
のが小倉城跡・小倉城下町ですので、小倉城跡と細川忠興をリンクさせてうまく紹介できないかなと思う次第。
ご存知の通り、細川忠興はピンで取り扱ってもなかなか面白い人物。史料から人物像がある程度導かれているのは上記の書籍の通り。
短気な武闘派でありながらクールな文化人という忠興の人生に照準を併せて整理したら面白いだろうな。と思います。

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細川忠興の居城クラスでは勝龍寺城を皮切りに宮津・田辺城から中津城、熊本城(厳密には息子忠利が入城)、八代城とありますが、
彼が直接関与した城郭跡で基本形を残すのは小倉城跡ぐらいでしょう。
城館史料学の立場からは、既に木島孝之氏の本城・支城体制の成果が提出されています。
それを踏まえつつ、現存する小倉城跡を丹念に拾い、現存しないけど城下を広く囲い込む外郭ライン(欧州の幾何学状の近代都市のよう)
まで含めて紹介したいものです。

せっかく関わりを持ったので、これまでの先行する諸成果を踏まえつつ、もうひとつのライフワークなテーマとして
城郭跡から小倉城跡と築城主体である細川忠興と近世初頭細川家の様相を整理しつつ勉強できればと思います。

細川忠興ゆかりの小倉城跡と言われるように、ひとつひとつ資料を積み上げていければ幸い。

2012年4月22日 (日)

旧福岡城表門(崇福寺山門)を訪ねる。

21日はお城仲間の方にアニバーサリーな所用があったので福岡行き。
たまたまfacebookにて、黒田家菩提寺の崇福寺山門(旧福岡城表門)が公開されていることを教えていただいたので、
それに合わせて見学してきました。
今年の春から、住処を筑前国御牧郡へ移し&13年ぶりに福岡県復帰なので、筑前国52万石の黒田家にご挨拶も兼ねて?のご挨拶です。

この山門は、大正七年に石垣に挟まれるように築かれた本丸表門を崇福寺が譲り受けて移築したものです。
城門の左右部分を切り離して門構えの部分で再構成されているので少し不格好な感じがします。
黒田家菩提寺ながら明治以降は衰退していた崇福寺でしたが、明治半ばに住職となった玄外和尚が再興に務めて再建事業を進め、
その一環として福岡城本丸表門を譲り受けての山門整備だったようです。
一部には福岡城跡に戻そうという動きもあるようですが、近代の崇福寺再興を物語る歴史資料もあることを鑑みれば、
移築された事実を重んじて、この山門は崇福寺にあった方がいいのではと思います。
今回の公開では、門の二階も入れました。中では台風被害で葺き直した江戸期の鬼瓦や古瓦も展示されていました。

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黒田家墓所も公開してましたので、訪問しました。
墓所は後に整備されたようで、思った以上に整然とパターン化されたものでした。
少し拍子抜け(^^

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さて、次の機会は豊前側の細川家、小笠原家関係も訪れないといけませんね。

2012年4月 8日 (日)

文禄・慶長検地帳の村落、直入郡城後地区を行く。

5月末に近戸の寓居から上津役へ引っ越すまでは週末は竹田市と往来。
4月第一週の週末、
由布院・湯平経由で直入町方面から最初の竹田市入りです。
さっそく、ライフワークとする中・近世豊後直入郡の研究を進めるべく、直入町上田北の城後地区などの下見をしてきました。

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城後地区(城後村)は、城後川上流の城後と下流の荻原から構成されています。
名前の通り、大友氏時代の有力国衆田北氏の居城、田北本城↓の西南に位置します。

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戦国・織豊期の城後村は、田北氏の一族城後氏が割拠し、文禄年間に大友氏改易により帰農して田北氏を名乗ったようです。
その後は近世を通して城後村庄屋として続き、良質の近世文書群(田北家文書)を遺してきました。
昭和40年代に佐藤満洋氏らによる文献調査を経て、
現在は大分県立図書館に所蔵されています。
その中に、400年前の文禄・慶長期の豊臣政権下での検地帳、及び寛永年間の竹中伊豆守による検地帳が伝わっています。

文禄・慶長期の太閤検地をもとに、佐藤満洋氏により大分県地方史で考察が発表されています
しかしながら、それ以来、現地踏査などを踏まえた総合的調査は成されないままに圃場整備も行われてしまいました。

それでも、今日もなお村落景観を残す城後地区は、400年前の様子を文献と現地調査から調べる余地が残されているように思えます。
併せて、近隣の田北本城・松牟礼城の調査も併せてこの際整理しておこうと思い、フィールドに加えることにした次第です。
今後、閉鎖字図の確認や聴き取り調査などを行いつつ400年前の景観復元を試みたいと思います。ご協力よろしくお願いします(私信)。

既に、荻地域では葎原郷の城郭跡と関連資料の調査から近世初頭、400年前の荻台地について調べる準備を進めています。
また、直入地域でも岡藩の支城法螺貝城の調査から当時の境目地域の動向を進める予定です。
これに加えて、親しい荘園研究者や別府大学などで行われている荘園故地調査の手法に学びつつ、
どこまでやれるかわかりませんが、痕跡から丹念に読み解くフィールドワーク系歴史学の「地域学」への有用性を示す意味でも、
上田北に残る400年前の土地家屋台帳(検地帳)から当時の村落景観の一端を読み解ければ、と考えています。

続きを読む "文禄・慶長検地帳の村落、直入郡城後地区を行く。" »

2012年4月 6日 (金)

『戦国の軍隊』を読む。

西股総生さんから新著『戦国の軍隊』をいただきました。ありがとうございますヽ(・∀・)ノ

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さっそく4月2日から通勤の西鉄バス内で読みました。
西股さんが以前に城郭研究者セミナーで報告された際の「兵種別編成方式」の視点をより進化させて論をまとめられています。
後半の織田・豊臣軍の性格とそれにまとわりつく兵站線の問題も興味深く拝見しました。

とあれ、「兵種別編成方式」については、今日の動員でも見られるような現場での単発的な編成ではないのかと思いつつ読みました。
方式といえるまで恒常的に機能したかは疑問ですが、史料からはある程度それを見越した動員要請(実際にできたかは別)まで到達したという印象です。
また、戦国期の城郭跡はその大半が防塁型ラインで囲い込むスタイルが主流だったことを思えば、野戦で組織戦が出来たのか少し疑問を感じます。
などと言う前に、負けぬように、西股さんの提示された視点を検証して城郭跡や史料からどうなのかを考えたいと思います。
一方、兵站線の問題は、豊臣軍の西日本進出の際にフロイスが指摘しているところですが、
他の軍隊では兵站線の限界を前提に作戦展開を図ったのに対して、多大な兵力を投入し、兵站線の問題も押しきるだけの実践力こそが、
朝鮮出兵に至るまで振り切れるほどの軍事性を極めた豊臣政権の特徴が出ているのではないかと思う次第。

いずれにしても、春から興味深い成果と刺激をいただき、ありがたいことです。

2012年4月 1日 (日)

13年ぶりの復帰。

2012年、4月から竹田市を離れて、福岡県北九州市に拠点を移しました。13年ぶりの福岡への復帰です。
九州大学の学生・院生時代を過ごした福岡市から離れて竹田市役所に就職したのが13年前。
そこで、行政職の基本と学芸職であれこれ経験させていただきました。
しかしながら、稼業の部分で行政職の経験を踏まえた上で専門的な場所で学びを深めるラストチャンスを得たので、
再び福岡県内(福岡市じゃないもうひとつの方だけど)に拠点を移すことにしました。
大学院時代、福岡市周辺の城館調査からはじめて豊前国まで調査範囲を広げる準備をしている最中に竹田市に採用されたのですが、
稼業以外の本業の分野では、その続きを再開することが出来そうです。
その一方で、これまでお世話になってきた竹田市に対して自分の専門領域できちんと成果をあげることができないのは心残りな部分です。
その分は、ひきつづき竹田市も重要な研究フィールドとして外部の専門家として関わりを持っていくつもりです。
稼業なことは書けませんが、それ以外で進める本業のアレコレはこの「あれこれラボ」に綴っていきますね(微笑)

竹田市では、研究する身分が常に紙一重なことを体感しました。辞令ひとつで専門の先生と呼ばれたり、市井の「お詳しい」方になったりします。
そうした体験を経て、専門的な属性に甘んじることなく、そうした身分が外れたときにも本業で「これが自分のライフワーク」と言えるものを持っているのか?
これを常に問いかけながら、今後とも自分の研究をまとめていきたいと思います。

新たな場所に拠点を移すとは言え、竹田市内の方々に「竹田の人より竹田に詳しい」と評価していただいていただけに、
市外では城郭研究の分野で専門性を評価していただいた部分で、市内でも同様に自らの専門性を認めさせることが出来ていたならば、
このすばらしいフィールドを全国に伝えることができたという無念さは変わりません。
今後は、竹田市内では「外部から来る専門家」として幾許とも研究を進め、皆さんの恩義に報いたいと思います。
また、今後も屋根のないあおぞら博物館づくりという岡の里事業実行委員会以来のプロジェクトに在野から支援と関わりを持ちながら、
研究者として竹田市=岡藩・熊本藩豊後領・天領=豊後国直入郡この素晴しいフィールドをモノにしたいと思います。
引き続き、ご理解とご支援をお願いいたします♪( ´θ`)ノ

ということで、14年目の稼業もがんばります。

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2012年2月27日 (月)

豊後岡城にある織豊系の桝形虎口、三題。

今さらな昔語りはさておき、今日も近戸の寓居から登城し、夕方巡見するのでした。

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みよ、絵に書いたような石塁(一部、土塁)が伸びて嘴状に形づくる、⎾┓のお手本のような外桝形虎口。
城外側へ出入り口を押出すという出撃的な姿勢がそのまま投影されたプランだとわかる好材料です。

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相変わらず、わかりづらいですけど、⎾┓なパターンが続く連続外桝形虎口の下原門跡。

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東中仕切門跡。これも外桝形虎口。横堀を越えて対岸に張り出す、千田Ⅳ期B、木島α系統Ⅶ類な虎口変遷モデルの指標でもある虎口です。
⎿┗┓ な形で、向こう側に土塁+石塁、
手前に土塀の基礎が土塁状に残っています。

今日もなお、良好な状態で織豊系縄張り技術の基本的な要素と教科書的な枡型虎口モデルから彼らの防禦の工夫がダイレクトにわかる点が
この豊後岡城の遺跡としての魅力です。また、その防禦の工夫が社会体制に昇華した姿を伝える点が史料的価値の高さを示しているのです。
高石垣の優れた事例は他にいくつもありますが、全体が残る故に、教科書的な虎口プランと防禦の仕組みがわかる近世城郭はそうそうありません。
なので、約400年前に織豊取立大名の中川氏が整備した虎口プランの的確な評価と保存を何度も指摘するのです。

これらの虎口プランが堪能できるのは、下草が霜で枯れた冬季に限ります。(上2つは伐採によりさらにわかりやすくなりました。)
ぜひ、飲み物持参でいらしてください。

2012年2月26日 (日)

講演会でない研究集会の重要さ。

私が在職していた頃、「近世の山城」というタイトルで全国城郭研究者セミナーを誘致しようと目論んだことがあります。
全国の城郭研究者や関係者に竹田に来ていただき、豊後岡城を中心に議論を開きたいと思ったからです。
城郭跡としては著名な割には、「調査事例」としては研究者の間で共有されていない状況をなんとかしたかったからです。
遺跡の調査成果から研究報告や論文などの公開、研究集会での報告といった研究上の交流を
積極的に展開しない限り、
知られていないのと同じだからです。
もちろん、セミナーを開くのは、これまでの自分が積み上げてきたネットワークや実力が試される機会なのですが、
多くの研究者を呼び集めることのできる研究集会は、講演会を何度も開くよりも遙かに対外的効果が見込めます。

また、セミナーのレジュメは有償頒布されるし、大会成果は翌年の『中世城郭研究』に掲載されるチャンスでした。
さらに、初の九州開催での全国城郭研究者セミナー、皆さんが九州の城郭を観るチャンスとして来てくれるという期待がありました。
会を開くことで、200名近い城郭史・歴史考古学・歴史学などの城郭研究者が集まる機会。
内には城郭研究とはどういうものかを、外には特徴ある縄張りを持つ近世山城、豊後岡城を全国の研究動向に印象づけるチャンスでした。

しかしながら、タイミングが合わない中、ようやく具体化しようとした頃には、
私の環境はそうしたものを受入れる状況にありませんでした。
そのため、2010年セミナーは泣く泣く関西の城郭談話会にお願いすることにしました。
嫌な予感はあたり、姫路大会が開かれる年には私は肩書きのないひとりの研究報告者として別の報告をすることになった次第です。

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一方で、そうした研究集会の重要性を証明するかのように、世界遺産を目指していた平泉町では2010年に町の八重樫忠郎氏が事務局を担い、
長年「学際的研究集会」を開いてきた著名な研究会である、中世都市研究会の平泉大会の開催を実現しています。
全国の中世都市研究の中に、平泉をどう位置づけるかを内外から確認しあう場となったようです。
その研究大会の成果は、2011年に刊行された『中世都市研究、都市のかたち—権力と領域—』で研究者に広く手渡っています。
ちなみに、この中世都市研究会は第9回大会(2001年)に大友府内遺跡を持つ大分市で開催されたことのある研究会です。
その際は、私も参加者としてフロアにて勉強させていただいたものです。

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このように、専門職に係わる人々ならば、自分の持ち分から成果を導き各地の研究会に積極的に参加し報告を重ねる中で
研究者同士のネットワークを築き、自分の所属元と全国の研究者ネットワークをつなぐことが求められます。
事業のためのネットワーク以上に、学術的なネットワークを築くことで、
自分の担当する遺跡が知られると共に、多くの研究者から関心をもっていただき、様々な見識に触れることができます。
それは限られたひとたちの中で議論することよりも遙かに有意義なものです。そうした知見を地元に還元する役割が求められるのです。

私のウェブログを見ていただいている方にはわかると思いますが、
中・近世遺跡については、歴史考古学・文献史学・歴史地理学・城郭史・建築史など様々なジャンルの人たちが
関係する幅広いネットワークがあります。
残念ながら、我がすまいの近くに近世初頭の城郭遺跡を持ちながら、その史料的位置づけを伝えることができていない憾みがあります。
それ故に、上記の責務を少しでも果たすべく、これまでに積み上げてきた「豊後岡城とその周辺の遺跡」など初期岡藩の関連遺跡について、
限られた条件下の現地調査とさらに限られた文献調査による研究を重ねてきました。

本年は、それらの成果をまとまった形として世に問う機会と考えている次第です。
もちろん、今の私は専門職的な環境・身分にはありませんので、民間学の立場からそれなりの手段を講じてベストを尽くしたいと思っています。

その一方で、今年は節目の年にあたるコチラに籍のある「専門職」な方には、私よりも遙かに恵まれた環境で専門的業務に従事されているのですから、
単に事業関係者を呼んでの講演会型セミナーではない、高い専門性の研究集会をどんどん企画・実践してほしいと願う次第。
その実現のためにも、担当者自らが研究報告者として積極的に中・近世移行期の学際研究ネットワークに参画し、
これまでの調査成果を全国の研究者に積極的に公表し門戸を開かれることを切に要望する次第です。
そうすることで、いずれ、この著名な城郭遺跡について研究者に認知されるような研究集会を誘致するネットワークと環境が整うと思います。

私自身、長年城郭研究絡みで研究会に参加する中で、重要な中・近世移行期の遺跡を担当された方々にお会いしてきました。。
そうした方々は、何年も係わってきた調査整備事業の成果を研究集会の報告などで発表され世に問われています。私も多くの学びを得てきました。
私の寓居の上にある近世城郭も、その歴史的価値が故に、中・近世移行期を対象とする多くの研究者が現場からの成果報告を待っていることに
もっと敏感になってほしいものです。

2012年2月21日 (火)

豊後岡城の古式と思われる軒丸瓦、城郭遺跡と瓦片についてなど。

最近、委員会さながらに夕方巡見していると、整備のための発掘現場に出くわすことがあります。活発に整備のための調査をされているようです。
おかげで、以前にお茶屋のオバチャンにみせていただいた↓の軒丸瓦以外にも、ボチボチ古式と思われる軒丸瓦が確認できるようになりました。

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↑は既に紹介した今は解体された茶店のオバチャンにみせていただいた軒丸瓦。その際、掲載許可はいただいています。
亡父が地獄谷で採集したとのこと。外縁部が厚くてしっかりした界線と左巻きの巴紋。12コの珠玉があります。

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↑は、年末に関西のKさんと歩いた際に、現在行われている桜の馬場(城代家老屋敷跡)の発掘現場の近くに置いてあった軒丸瓦。
一部欠けていますが、外縁部が厚くてしっかりした界線と左巻きの巴紋。12コの珠玉があるタイプです。
もちろん撮影しただけですのであしからず。

この他、現在行われている桜の馬場(城代家老屋敷跡)の発掘現場側に軒丸瓦があり、これをみると、
上2つよりも少し外縁部の厚みがないもの。界線はやや細く右巻きの巴紋。16コの珠玉があるタイプでした。
(もちろん実見しただけですので、持ち帰ったなどと言わないようにお願いします)

さて、現時点ではこの2つのタイプ、どちらも形式だけなら古式なもの(17世紀初頭)と評価できるようです。
豊後岡城は地表面に落ちているものをみた範囲では桟瓦も多くて、余り古い形式の瓦がないと思っていました。
しかし、最近これらの瓦をみるにつけ、あるところにはあるような感じがしています。

ところで、城館史料学会、城郭談話会、織豊期城郭研究会などで報告されてきた城郭瓦の成果は今日、広く認知されており、
城郭跡に関わる調査者ならば近世城郭における城郭瓦の調査とその成果が公表されることの重要性は共有されていると思います。
そのひとつとして、近世の城郭遺跡の瓦片の取扱いについて取上げると、『城館史料学』第三号の木島孝之氏の論文にあるように、
無数の瓦片などが多く含まれる近世の城郭跡の発掘調査では、そのほとんど一層に近い表土を矧ぐ際に、
どういった形式の瓦片がどれだけの分量含まれているか、またどういった状態で散布していたのかを
慎重に調査し記録しつつ作業を進めることの重要性が指摘されています。

瓦片ひとつひとつはたいした資料とはならないものですが、一括の分量として扱うことで、それらの分布範囲の傾向をつかむ材料として、
また瓦片のタイプ別含有割合から、当時の建造物の様相や瓦の使用状況を知る貴重なデータが得られるというわけです。
それを知らずに、礎石などの検出に目がいく余りガサッと表土を矧いでしまっては、こうしたデータ収集はオジャンになり、
史料的価値を秘めた瓦片は残土と共に廃棄されることになってしまうので要注意です。
調査者の見識ひとつで、瓦片が貴重なデータを導く資料となるかどうかが決まります。
これらの見識も、広く城郭関連の研究者・担当者のネットワークの中に入り議論を重ね、先行研究に学ぶ中から得られるものです。

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さて、豊後岡城の城郭瓦の先行成果としては、1988年の近戸門側の普請方近辺の発掘調査があります。
報告書では、その時の担当者さんが検出された軒丸瓦について形式表を提示し、遺物の年代観を提示するなど優れた先行研究を公表されていました。
しかしながら、その後は西ノ丸や大手門の発掘調査が成されたにも関わらず、まとまった報告書(事業報告書ではありません)も少ないまま推移してきました。

ようやくここ数年は西方外曲輪の家老屋敷跡を中心に発掘調査→整備が始まり、まとまった分布を知る重要な機会と思われます。
ですので、上記の写真にて、軒丸瓦などの城郭瓦の存在を外部の研究者の皆さんに紹介すると共に一括資料としての瓦片の取り扱いを含めて、
学術的にオープンな場での検証と幅広い調査成果の活用を広く喚起したいと思います。
その嚆矢として、関係筋には充実した専門職の体制をフルに回転していただくことで、
早い段階に、単なる事業成果報告や文献史料集に留まらない学術的な考古学調査とこれまでの成果を盛り込んだ
本格的な発掘調査報告書を刊行されることをお願いしたいところです。

2012年2月20日 (月)

伝えたいふるさとで400年前を探る。

岡城・城下町もいいけど荻台地もね、というわけではありませんが、
伝えたいふるさと2月号にて、「400年前の荻台地の城館」と題して、旧荻町指定史跡の下原城と弁当城・鴫田(峰)城を紹介しました。
11〜12月の調査成果をもとに作成した下原城跡の復元図を掲載し、下原城跡が中川領の支城として整備されたとの見解を示したものです。
加えて、別府大学の調査成果をより精査し自らの現地踏査を加味して弁当城の位置もおおよそ比定することが出来ました。
中川秀成入部時に荻台地に所領を得た与力の田原紹忍・宗像鎮続の持城、弁当城、鴫田(峰)城と、
葎原郷の統治拠点として機能した平地城館の弁当城と、軍事的機能が前面に出た下原城を対比することで、
これらの城跡が関ケ原戦時の荻台地における緊張状態が読み取れる重要な史料であることを紹介しました。

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今回は法務局にて行った閉鎖図面の調査から、400年前の下原城跡の復元図を作成しました♪( ´θ`)ノ
そうした成果を盛り込み地域をあるく眼差しから400年前の荻台地を紹介する、「伝えたいふるさと2月号」は、殿町の竹田創生館に置いてあります。
興味ある方はお問い合わせ下さい。

旧荻町の下原城に続いては旧直入町下竹田地区にある法螺貝城を紹介したいと思っています。こちらはバリバリの織豊系縄張り技術の土づくりの山城です。
このように、日々、着実に作業を進めていますので、できるなら専門職にあられる関係筋からも岡城築城前後、400年前の地域の文化財から
包括的な視点の歴史像を市民に示していただき議論できれば幸いに思います。

2012年2月 8日 (水)

寒暮登城。

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近戸谷の一番奥の光景。真上には西方外曲輪(西ノ丸)の外郭ラインを構成する櫓台が睨んでいます。
わざわざ谷のおおよそ真ん中の位置に合わせるように櫓台が
配置されている点が豊臣大名らしいテクニックです。

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どなたかが説明板を掲げているのに気づきました。拙稿の内容を踏まえた解説文になっていて面映ゆい限り。
豊後岡城の縄張りの特徴をいかんなく発揮している東ノ郭から下原門跡周辺について、先行研究とどう向き合いながら整備するのか、衆目がみています。

前にも紹介しましたが、城郭跡を扱う専門の方々なら下記の遺構が連続外桝形虎口にみえないようでは困ります。
400年の時を刻む遺跡に対して、城郭跡の縄張り理解という専門的な力量が問われる瞬間です。

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2012年2月 6日 (月)

豊後岡城主郭の軒丸瓦をみせていただいた思い出。

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写真は、豊後岡城の二ノ丸茶店のオバチャンに以前に見せていただいた軒丸瓦です。
はっきりとした年代はわかりませんが、瓦頭の様式的には古式な部類に属するもののようでした。
文禄慶長期とまでは言いませんが、様式としては寛永より遡る近世初期と言ってもよい部類の軒丸瓦でした。
オバチャンは亡父が地獄谷側の斜面で採集したと申してました。その際、今後の紹介についてご快諾をいただいています。

豊後岡城の地表面で確認できる古瓦は桟瓦など近世後半のものがほとんどです。
その中で古い様式の古瓦がいくつか確認されています。
20数年前の西ノ丸公有化に伴う普請方の発掘調査では、出土瓦から瓦編年表が作成されています。
その中でも近世初頭に遡るだろう軒丸瓦の瓦頭が記録されています。
残念ながらその後は古瓦についての調査成果もなく、まとまって表面採集された報告もないようです。
とある方が瓦について問い合わせたところ、その20数年前の軒丸瓦はまだ整理できていないのだとか。もったいないことです。

その意味では、上記の軒丸瓦は主郭に近いところで採集されたものとして貴重な遺物と言えそうです。
茶店にあったのを撮影させていただきましたが、去年の秋に茶店は取り壊されてしまいました。
その際、この軒丸瓦はちゃんと引き渡されたのか、どこへいったのかは今の身分では知る由もないのですが………。

四百年前の近世初期の息吹を知るやもしれぬ貴重な資料ですので、確認できているならぜひ公開してほしいですね。

2012年2月 5日 (日)

日曜は上角鬼ヶ城の縄張り調査。

〆の日曜日、5日は曇天→夕方から小雨の中、上角鬼ヶ城の縄張り図の調査を完了しました。
西側の隅櫓と石塁は調査していましたが残りをしていなかったのを一気に仕上げました。

その結果、下図の調査図のように、左手(西側)に隅櫓と石塁、東側に隅櫓と外桝形虎口を構えた出城であることを確認できました。
既出の報告書にある測量図では石垣列は真っすぐになっていましたが、今回竹薮に分け入って石垣列を確認して調査したところ、
石垣列は少し内側に食い込んでから、東南隅の虎口を構成する方形状の高まりで張り出す形になっていました。
方形の主郭から東南隅の外桝形虎口がしっかり張り出している様が明らかになりました。

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これで、豊後岡城周辺の櫓屋敷については、上角鬼ケ城、木戸の城、菅作之進屋敷跡櫓場の調査を完了しました。
また、支城については、これまでの小牟礼城跡に加えて、下原城跡・法螺貝城跡の調査を完了しました。
これらの材料を整理して「豊後岡城と近世初期中川氏の支配体制」の一連のシリーズにてまとめる予定です。

幕末の藩体制を強く規定した近世初頭の様相について現存遺跡からわかることを着実に押える作業を進めています。

※K氏から外桝形虎口と評価してよいのではないかと指摘があり、確かに櫓台状に東南隅が効いているのでそう解釈しなおしました。

2012年2月 4日 (土)

週末の城郭跡踏査。

先週・今週と豊後と筑後方面の気になる在地系城郭(織豊系城郭も確認できましたが)を集中して踏査してました。

先週の週末は国東方面に遠征、以下の城郭跡を見て回りました。
副城(宇佐市院内町)、立石城・日指城(杵築市山香町)、御所の陣城・小城(国東市国東町)、吉弘城(国東市武蔵町)、真嶽城(日出町)
その内のワンカット↓ 御所の陣城です。

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そして、今週末の土曜日4日は筑後方面に遠征、以下の城郭跡を見て回りました。
住厭城・毘沙門嶽城(久留米市)、山隈城(小郡市・筑前町)
その内のワンカット↓ 住厭城の畝状空堀群です。

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2012年2月 3日 (金)

豊後岡城の御城外櫓場と竹田城下町

城下町とは、文字通り城郭が築かれてはじめて成り立つもの。
ですので、城郭の縄張り構造を踏まえず切り離して語られる城下町論や都市論はあんまり意味がありません。
今日の多くの都市のルーツとなった城下町は、織豊期の豊臣系大名や関ケ原戦以降の諸大名が新たな領土に入部し、
織豊系縄張り技術ベースの近世城郭を築城してはじめて成立したものがほとんどです。
城郭が築かれなければそこには町は成立しなかったと言い換えることも可能でしょう。
よって、都市のルーツを語る際に城下町論を行うならば、主体たる城郭の理解を抜きにはあり得ないと言わざるを得ません。


既に示した豊後岡城の縄張りの特徴を踏まえて、城外の上角台地・竹田城下町をみるとその独特な風景がみえてきます。
その一端を示すのが、『中川氏御年譜』にも収録されている「岡城中櫓場城外櫓場之覚」です。
この内、下記の城外櫓場13ケ所が設置されたことを抜きにして、竹田城下町の性格は捉えられないと思います。

一 菅作之進屋敷 吉村五藤治屋敷
  願成院山 惣役所重門上 村上臺四郎屋敷
  中川大三郎揚屋敷 小河弥右エ門屋敷
  室十右エ門屋敷 中川平右エ門屋敷向
  吉田峯之進屋敷 大勝院山 烏嶽
  下石勘右エ門屋敷  左十三ケ所

場所に示すと下記の図の
通りです。

2

豊後岡城を中心として、上角丘陵の要所に櫓場が築かれていることがわかると思います。
櫓場の覚書を手掛かりに現地を踏査すると、櫓屋敷と呼ばれた櫓台を持つ屋敷跡や櫓場跡を確認することが出来ます。

この中で、西端の阿蔵口を押える茶屋の辻に築かれた下石勘右エ門屋敷(上角鬼ヶ城)は隅櫓を複数構えた方形の出城。

Rimg3285◀上角鬼ヶ城の隅櫓

北側の近戸口を押える村上臺四郎屋敷(木戸の城)↓は両袖桝形を持ち、石垣で囲まれた出城となっています。 

Rimg4128◀木戸の城の石垣塁線。

そして東側の菅作之進屋敷には、当初は屋敷の直下を通っていた十川町ヘ下りる城道を押える位置に櫓台が遺されています。
また、眼下に十川町を見据えることが出来ます。

Rimg4102◀下原門から十川町へ下る旧城道を見据える櫓台跡

この配置をみると、出城や櫓場は豊後岡城の三口(下原、上角、近戸)から伸びる尾根上の武家地に築かれており、
城外で攻め手を牽制し先制攻撃を加える役割を期待されたことがわかります。
また、西側の竹田城下町をすっぽりと囲むように背後の尾根に櫓場が整備されていたことがわかります。

城外櫓場の現地調査をもとに、次の4タイプ(A:出城型櫓屋敷(櫓台が一体化した武家屋敷)タイプ、
B:屋敷内などに単体の櫓台が配置された櫓屋敷・櫓場タイプ、C:櫓台が伴わない見切場タイプ、
D:後世の改変等により特定できないもの)に分類して、分布をみると
下記の図のようになります。

1

これをみると、豊後岡城の尾根筋に築かれた出城・櫓場は明確な土木構築物を備えたものが多く、
本城部分の防御を第一義として築かれたことがわかります。
城下の中でも家臣団が居住する武家地は本城部分と一体的な役割が期待されたことが見て取れます。

一方、城下町側は外縁部に櫓場を構えているものの、こちらは物見台のような簡単な構造が多かったようです。
櫓場で囲まれていたことは、竹田城下町が本城を核とする求心的な秩序の中に位置づけられていたことがわかります。

竹田城下町が本城と武家地を構える大名家と家臣団を支える供給基地として位置づけられたものと思われます。
しかしながら、櫓場の形状が若干劣ることから、本城と武家地より城下町はワンランク下の位置づけが成されていたことも見て取れます。
つまり、いざという時には本城・武家地に比べて城下町は放棄もやむなしという位置づけだったと思われます。

幸い、豊後岡城で激しい戦闘が起こることはなく竹田城下町を捨てて本城・武家地に立籠ることはありませんでした。
多くの城下町と同様に、350年余りの平穏な時代には豊かな城下町文化が栄え、近代に引き継がれることになりました。

他の城下町ではそうした本来の基層構造を知る手掛かりがないため城下町の位置づけは見落とされることが多いのですが、
全国でも珍しい城下町の外側を囲む櫓場の存在がわかる竹田城下町は、本来の城下町の役割を知るとても貴重な物証と評価できます。

このように、全国の最前線の城郭研究の現場に足を運び城郭の縄張り構造を読み解く目線を鍛えることから、豊後岡城のみならず、
竹田城下の櫓場が貴重なものであることや、原初の風景を遺す竹田城下町の資料的価値、独特な景観を持つ町の履歴がみえてきます。
それは、縄張り研究ベースの城郭理解を以て現地を丹念に踏査し、その知見を以て文献史料にも当る姿勢で臨むことで得られるものです。

近世初頭の本来の本城と武家地・城下町の関係性を遺跡として遺す豊後岡城・竹田城下の重要性を指摘すると共に、
主たる城郭を取り扱う縄張り研究の理解と実践を抜きにしては城下町論を語れないことを認識していただければ幸いです。

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